マルクの眼

千字一夜

日々旅にして旅を栖とす


幸せを感じたい。

なぜか常に悲しい。ただの情緒不安定じゃん。と思いきや、「悲しい」の一点で安定してるのがまた悲しい。

家に帰って湯船に浸かっている間だけ少しの幸せが得られる。その小幸状態のために毎日毎日ふやけている。バスタブから出る時の重力が憎い。

仕事に充実感や手応えはあっても即ち幸せではなくて、自分が恵まれた環境に置かれていることを理解しているという意味では幸せなのだろうけど、体の内から湧き上がるような幸せではない。そういう意味で、考える幸せと感じる幸せに乖離があると思う。

感じる幸せといえば自ずから快感性感が浮かぶので、じゃあメスイキスイッチこと前立腺をゴリゴリすれば内から幸せが起こるのではと思えども、試みる気も起こらぬ悲しさ。

最後に身体の底から幸せを感じたのはいつだろう。あれは、どこへ行くか分からない鈍行のバスに揺られながら、里山を見下ろした一人旅の時じゃないか。

由良の門を渡る船人のように、流れ寄る椰子の実のように、行方も知れぬ旅に出て彷徨いたい。道祖神に招かれたように浮き寝の旅を繰り返し、やっと戻った故郷で死にたい。

人間の本質は自由闊達であって、ひと所に縛られたり、一つの作業を強いられるものではない。もはや一所懸命の時代じゃない。新しいことや知らないことを常に探して移動し見聞を広めなくてはならない。

旅はいい。旅の恥はかき捨てだ。
自分とはまるで性格の違う自分を演じても誰にも分からない。咎められない。
目に映る全てが新しい世界で古い自分を殺して新しい自分に生まれかわる。そんな死と再生のモチーフが旅にはある。

生きている以上、生きている価値のあるものを見て聞いて知りたいと思う。
思うだけなら自由だ。