マルクの眼

千字一夜

それ

無人島になにか1つだけしか持っていけないとしたら?」

自分の人生の目標・到達点・ゴールというものがあるとすれば、どんなものなんだろう。

幸せな未来が目標であれば、どこかの地点に達することで果たされるのではなくて、ある時にふと自覚する幸せがゴールなのかもしれない。だとすると、諸行無常の世にあってその幸せが恒久的であることはあり得ないわけで、常に幸せを維持するために多大なる努力と犠牲を払わなくてはいけないのではないだろうか。

そんなことを自覚してしまった時点で、不確定な先のことを思い悩み、足元にある幸せに気づかず、自分の目標が達成された刹那すら知らずに死に向かってしまう。ゴールはゴールでも、サッカーやバスケットボールのゴールのようだ。限りある時間が終わった時、何度ゴールを決めたかで結果を判断するものの、そこには敵も失点も勝ち負けもない。強いて敵を挙げるとするならば自分自身の名誉欲や虚栄心なので、やはり球技とは違うかもしれない。

私がもつ到達点というそれ以上先がない場所のイメージは、昔のゲームにあった世界の果て、遠景の描かれた壁のような場所だ。

壁のようなものはなく、先は虚無、なにもない空間というならそれは死そのものであって、ただ時間に押し流されながら死に向かう運命にある衆生には然るように用意されているので、能動的に目指すものではない。

努力をして辿り着いた到達点にドアがあって、その先には永遠の幸せが待っているというイメージはとても想起しやすいのだけれど、これは全く天国のそれであって、人が人生について考えた時に思い浮べやすい理想の終焉、ハッピーエンドなのだろうか。

永遠の幸せに続くドア、或いは門はいわゆる狭き門で、通るには様々な条件がある。自分でたくさんの条件を設定し、限られた時間でその条件をこなすための努力をする。ドアに辿り着くための努力をすることと、ドアを通るための努力をするのは同じことだ。自身で作った幸せを手に入れるための条件に苦しみ、理想の人生像に押し殺される人もいる。

人生に期待せず、ただ漫然と無気力に生きる。これが一番の生存率を上げる方法かもしれない。