マルクの眼

千字一夜

衆愚の中、稀に傑物の現れし事


100年以上前に廃寺になった真言宗の寺院について調べている。

鎌倉時代以前の開基と伝わり、江戸時代には近郷一円から篤い崇敬を受けた寺院として知られるが、徳川300年の治世では波もあったようだ。

年号と歴代住職の名が書かれた遺物を年表に書き出して見ると、資料の集中する時期とそうでない時期の差が激しいのがはっきり分かる。

宝篋印塔や堂宇の建立など、数百年に1度の大きな事跡が1人の住職に集中することもあり面白く思う。

大型の奉納や建立が相次ぐ時期というのは、その直前に大災害が起きていたり、動機となる事件が見られる場合もあるので、洪水や地震・噴火・飢饉等の記録も年表に書き出したが、あまり関連がないように見えた。
逆に災害によって厳しい寺院運営を強いられた様子もない。

結論として、時期によってこれだけ資料量に差が出たのは、単純に当時の責任者である住職個人の手腕・力量の差によるらしい。

在野の知識人であり有徳者であり経営者でもある、まさに傑物というべき僧侶が、100年に1度現れて歴史に名を残す。

マスメディアの煽り文句に「100年に1人の〜」とはよく言ったもので、本当にその通りの周期で優れた人物が出るのは実に不思議で興味深くありませんか。

翻って、今の自分は数百年後になにを残せるのだろうか。未来から逆算すると今の場所で擦り切れている場合じゃない。向上心のないものは馬鹿だ。向上心のないものは馬鹿だ。

溢れるコンテンツの一つとして求められるままに動き消費されて生きるのが豊かな人生かな?耳障りのいい言葉だけ呟くbotと同じように扱われていないかな?

疑わしきは罰せよ。「機械の様に余り馬鹿にしないで」と言うんだ。最期のいまでなくても。

功徳と功名こそが救い。