マルクの眼

千字一夜

あなたの瞳に映る私の話

最近やたらと目にするようになった「SNS(インスタ)映え」という言葉。インターネット黎明期なぞ私は知らないが、馴染みのある限りでmixiアルバムの太古から多かれ少なかれ「写真映え」という意識はあった。文字として生活の表層に現れ市民権を得てしまうとは思わなかったけれど。苦しみながら生きる弱い自分の姿を隠そうと、無闇なキラキラファンタジー世界に暮らすことをアピールしてしまうのは唯の虚栄心なのか。はてさて。

かく言う私も最近まめにインスタグラムを更新しているのだが。「インスタ映え」を意識して世界を見ると、ダラっと怠惰にしていた景色も心なしか緊張するようだ。仕事や旅行先、美味しかったご飯などの写真を好んで撮っては上げている。

私は一人で鏡やスマホの前で表情を作るのが苦手、ゆえに自撮りが下手だ。それだけでホモとして相当のハンデキャップを抱えていると思う。ブスのくせに美意識が強くて自分の殻を破れないのには参る。が、友達と撮った写真の中の私は笑えているし、写真を見ると友達と過ごした時間を思い返せる。これはいいぞと、25歳になってからは友達にお願いして自分の写真を撮ってもらい、インスタにあげている。インスタで繋がっているのは、幼稚園からの友達やゲイの友人など交友範囲がバラバラで、会った人の写真を公開するのに多少抵抗があるというのも一つの理由だ。

友達が撮ってくれた自分の表情に友達との関係性が見える。カッコつけたり笑ったり苦い表情でいたり、自然に楽しんでいるように見える自分。それが私は嬉しい。SNS映えがなんだ。映えなくたって私は撮ってもらった自分の写真をあげるぞ。そんな気分。楽しい思い出が蘇るのでInstagramは本当にいいアプリだと思うし、闇が深かろうがマウンティングが酷かろうがどんどん使いたい。