マルクの眼

千字一夜

オカルト太郎

心霊スポットに住んでいる。

高校を卒業する頃、自分の実家が市内では心霊スポットとして有名だと知った。それを知った経緯は、友達に「近くに心霊スポットがあるよ」と教えられたこと。それがうちだった。笑える。

家に帰って親に聞いてみたら、隔離病棟だとか葬場だとか、まぁそんな類の建物が建っていたところらしい。言われて見れば思い当たる節がある。

小学生の時分、友達と家の近くの公園で遊んでいたら、植え込みの土の中になにかあった。ワクワクしながらみんなで掘り返すと出るわ出るわ、理科室の棚にあるような瓶がたくさん。

かなり古くて割れているものも多かったけど、茶色い大きな瓶が一つ無傷だった。掘り出して手に持つと、中でピチョンピチョンと音がする。そして栓が閉まっているのに変な臭いが漂う。

急いで瓶を元の場所に戻して手を洗い、何事もなかったように遊んで忘れた。
もしかしたらあれは死体の保存に使われる薬剤の瓶だったんじゃ?

あと、小さい頃は家の中でよく女の子を見た(ような気がする)。
影みたいな、顔の見えない8歳くらいの子がよく家の中を走っていた。パタパタする足をよく見た。

夢の中では姿がはっきり見えて、隠れんぼをしたこともあった。女の子を探して押入れを開けるとニタァと笑ったその子が体育座りをしてい見上げている夢。
夢といえば、誰もいないはずの家で誰かに会う夢も見たし、現実にも留守番中に人の気配を感じることもあった。

書き出すと意外なくらい多い。
しかしそれ以上に嫌な話を親はしていた。
この跡地に建てられた家に住む子は、必ず一人おかしくなる、というやつ。詳しく言えないけど、跡地に建つ家・マンションに住む世帯を見ると本当にその通りだ。必ず子どもの中に一人。

最近話題になってる「残穢」という映画のあらすじを見て思い出した話。
「念」と呼ぶには抵抗があるけど、悪い雰囲気や空気が停滞残留するように感じることはある。

ちなみに、小学生のときに見つけた瓶は公共施設の大量不法投棄として数年前に問題になり、ローカル紙で報道された。
目や口に入れば危険な薬物の瓶もあったとか。

心中穏やかでない


穏やかに生きる私の妨げになるものを心の中で抹殺する穏やかじゃなさ。

アビーチーになりたい。嫌な仕事をドタキャンしても、良いものを世に出せばお金を手に入れられる存在になりたい。そう考えると凄すぎか、アビーチー。
先日、今年は来るのかな…と、チラリと期待したけど、今は「アイツはどうせ来ないよ、そーゆーヤツだもん。」って揺るがない結論を出した。アビーチーなんていない。アビーチーは親がやってる。

ゲス川谷もそう。
ぼそぼそファンに謝って泣けば黄色い悲鳴があがる。曲も売れる。女は干されてもバンドは売れる。そんなのエオンし放題じゃん。エオンエオンだよ。まじ。

汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。
少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既にアビーチーとなっていた。
ヘイ!


人が人を裏切れるのは若いうちだけで、歳をとるほどに相手のことを考え気がひけて腰が重くなると思う。海援隊よろしく、人は悲しみが多いほど人には優しくできると思っているし。年齢分くらいは。
だから逆に、妙齢でエオンしてる人間は大抵精神が未発達で頭が悪い。暮れなずむ町の光と影の中に消えろ。

20代半ばを過ぎても大学生ノリでウェイするゲイピポがあちこちでエオンしてるのもそう。
わっきゃエオンするうちは楽しいでしょうよ。でもそのうち居場所を失くす。居場所がないと生きていけないのに居場所を壊してしまう哀れさ。力をコントロールできないトロールじゃあるまいし性欲くらい抑えられないのかな。
壊れそうなものばかり集めても許されるのは10代までだけど、「こちとら10代から性欲トロールでござんす」って御仁もいるからタチが悪い。いやタチはいいんだろうけど。

「はいはい、お盛んな人が偉いお盛んな人が偉い」って安っぽくゲイ界に絶望して久保田早紀になり、あとは悲しみをもて余す異邦人として生きていきたい。

自明の権利としての好奇心


昨日、自転車で川沿いを6時間走るだけのささやかな運動兼散策をした。

東京で美術館を巡るか、文書館で調べ物をするか、はたまた家で文章を書いて過ごすか、そんな事で悩んでいたら午前はあっという間に過ぎて、結局、少し書きものをして外へ出た。一日家に居るには晴れすぎだ。

途上、仕事場の近くを通ったので前々から気になっていたところに寄って写真などを撮った。イマドキのフィールドワーク男子は直ぐ写メを撮るしメモはスマホに入れちゃう。余程に専門的な事でなければインターネットで検索もできるから、財布とスマホがあればフィールドワークができる。未来はもう今なんだとワクワクする。

一時間ほど他人の墓で過ごしてからコンビニで遅いお昼を食べ、あとはずっと考え事をしながら自転車を漕いでいた。好きな人が僕の好きな曲を好きになってくれて嬉しかったとか、仕事と勉強と遊びで性格と体を分けられたらいいのにとか。

あとはSMAPタイムリープ説について考えていたんだけど、これは一昨日、友だちと寿司を食べながら熱く熱く議論したところだ。キムタクがタイムリープしてるのは確定だけど、他のメンバーではだれがタイムリープを知っているか話し合った。草彅は裸泥酔事件の段階で「今回は救ってやれなくて悪かった」的なことを木村に言われてると思うんだよなぁ。

友だちと寿司を食べた日、タイムリープの話題が夜更け過ぎに年収に変わり、男子グループのリーダー格が入社一年目でボーナスを60万貰ったという話を聞いた。
それが一回なのか夏冬合計なのかは知らないし、あまり興味もないような顔で流してしまったけど、内心は炒めた蛾の幼虫を噛み潰したような気持ちだった。

好きなことで生きているので私はYouTuberだしYouTuberの中では安定した身だしYouTuberなのにYouTubeを使わないで稼いでるのでスゴいんだけど、一流企業でバリバリ働きバリバリ稼ぐ自分にもなってみたかったという気持ちがある。どうせ年収で負けるなら同じ土俵に立って真っ向から負けたい。

でもよく考えたら働きたくない。年収そこそこでチンタラ生きたい。働かずにバリバリ稼ぐにはどうすればいいの?一番の悩み。

私は好きな事を研究するので、だれかそれを高額で買ってくれないかな〜〜。
買ってくれ〜〜〜!

日々旅にして旅を栖とす


幸せを感じたい。

なぜか常に悲しい。ただの情緒不安定じゃん。と思いきや、「悲しい」の一点で安定してるのがまた悲しい。

家に帰って湯船に浸かっている間だけ少しの幸せが得られる。その小幸状態のために毎日毎日ふやけている。バスタブから出る時の重力が憎い。

仕事に充実感や手応えはあっても即ち幸せではなくて、自分が恵まれた環境に置かれていることを理解しているという意味では幸せなのだろうけど、体の内から湧き上がるような幸せではない。そういう意味で、考える幸せと感じる幸せに乖離があると思う。

感じる幸せといえば自ずから快感性感が浮かぶので、じゃあメスイキスイッチこと前立腺をゴリゴリすれば内から幸せが起こるのではと思えども、試みる気も起こらぬ悲しさ。

最後に身体の底から幸せを感じたのはいつだろう。あれは、どこへ行くか分からない鈍行のバスに揺られながら、里山を見下ろした一人旅の時じゃないか。

由良の門を渡る船人のように、流れ寄る椰子の実のように、行方も知れぬ旅に出て彷徨いたい。道祖神に招かれたように浮き寝の旅を繰り返し、やっと戻った故郷で死にたい。

人間の本質は自由闊達であって、ひと所に縛られたり、一つの作業を強いられるものではない。もはや一所懸命の時代じゃない。新しいことや知らないことを常に探して移動し見聞を広めなくてはならない。

旅はいい。旅の恥はかき捨てだ。
自分とはまるで性格の違う自分を演じても誰にも分からない。咎められない。
目に映る全てが新しい世界で古い自分を殺して新しい自分に生まれかわる。そんな死と再生のモチーフが旅にはある。

生きている以上、生きている価値のあるものを見て聞いて知りたいと思う。
思うだけなら自由だ。


衆愚の中、稀に傑物の現れし事


100年以上前に廃寺になった真言宗の寺院について調べている。

鎌倉時代以前の開基と伝わり、江戸時代には近郷一円から篤い崇敬を受けた寺院として知られるが、徳川300年の治世では波もあったようだ。

年号と歴代住職の名が書かれた遺物を年表に書き出して見ると、資料の集中する時期とそうでない時期の差が激しいのがはっきり分かる。

宝篋印塔や堂宇の建立など、数百年に1度の大きな事跡が1人の住職に集中することもあり面白く思う。

大型の奉納や建立が相次ぐ時期というのは、その直前に大災害が起きていたり、動機となる事件が見られる場合もあるので、洪水や地震・噴火・飢饉等の記録も年表に書き出したが、あまり関連がないように見えた。
逆に災害によって厳しい寺院運営を強いられた様子もない。

結論として、時期によってこれだけ資料量に差が出たのは、単純に当時の責任者である住職個人の手腕・力量の差によるらしい。

在野の知識人であり有徳者であり経営者でもある、まさに傑物というべき僧侶が、100年に1度現れて歴史に名を残す。

マスメディアの煽り文句に「100年に1人の〜」とはよく言ったもので、本当にその通りの周期で優れた人物が出るのは実に不思議で興味深くありませんか。

翻って、今の自分は数百年後になにを残せるのだろうか。未来から逆算すると今の場所で擦り切れている場合じゃない。向上心のないものは馬鹿だ。向上心のないものは馬鹿だ。

溢れるコンテンツの一つとして求められるままに動き消費されて生きるのが豊かな人生かな?耳障りのいい言葉だけ呟くbotと同じように扱われていないかな?

疑わしきは罰せよ。「機械の様に余り馬鹿にしないで」と言うんだ。最期のいまでなくても。

功徳と功名こそが救い。



まだツイッターで磨耗してるの?


言いたいことは沢山あるし、実際に書いてみましたけど、タイトルに勝る文を書けない。

要するにこういうことで、私はそうなりたいんだ。

酸素や血液というわけでもあるまい。