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マルクの眼

千字一夜

今夜

 

‪ドラッグストアのレジで鼻炎薬の精算をしていたら、小・中学生時代の友達を見た。彼が先に私を見つけ、しまったという顔で後ろ髪を掻きながら立ち去る横顔を見た。そんな顔をされなければ私は彼を思い出す努力もしなかっただろう。

名前が一文字違いの縁で中学卒業後も親しくしていたが、高校の卒業直前に彼が引きこもりになって途絶えた。原因は、同じ高校に進学した同級生による虐めだったとも言うし、彼が彼の友人と一緒に山道で起こした交通事故によるとも言う。

私がこの話を聞いたのは成人式の同窓会の席だ。日頃から地元仲間でつるんでいる連中はよく知っていたようだが、私が訊いてもお茶を濁すばかりで詳しくは教えてくれなかった。いつの間にか彼らの間でこの話はタブーになっていたらしい。それもそうか。虐めていたと言われる男の仲良し連中みたいなものだから。

友達は野球部だった。いつも元気なおバカキャラだ。まぁ本当のバカではないのは知っていた。たまに辛そうな表情をする人だった。玉木宏に似た端正な顔で、笑うと目元に皺が出るのが印象的だった。

久々に会った彼はメガネを掛けていた。変わらず黒くて固そうな髪はゲイから見ればモッサリだが一般的な長さだ。定期的に床屋へ行ってるのだろう。元々肌は白い。少し老けたが、相変わらず綺麗な顔だった。ほんの一瞬の光景が鮮明に網膜に焼き付いている。

まるでUMAに遭遇したようだ。呆気にとられてレジ袋要りますか?の問いかけに要りません。と答えてしまい、店員からおつりと商品の入ったカゴを受け取る。顔を見るとその店員も同級生だった。気づかれていないかもしれないが、いつもより真面目な声でお礼を言って、サッカー台にカゴを乗せる。カゴの中のものを鷲掴みにしてそそくさと店を出る。レジに並んでいる間に見つけてカゴに入れたりんごグミを食べる。ドライフルーツのようでうまい。車を出す。

 

 

 

 

 

ニッチと察知

恋愛について人に相談しない。理想が高い、傷つくことを恐れるな、積極性を持て。恋愛に関してポジティブな言葉を掛けられたことのない人間には不意の致命傷が怖い。怒りも悲しみもなくただ苦い記憶として沈殿した様々な思い出が少しの揺らぎに舞い上がって透明だった水を濁す。逆説的止水明鏡。飛ばずに死んだ鳥も水を濁す。

芯のない人間になれと言われる。芯は邪魔だという。じゃあ死ぬ。なんのために生きてきたのか。全く私はアンダーグラウンドだ。モグラのようにあなた方の知らぬところで生きて死ぬ。

真っ当なダメ人間としてダメな人間の自覚がある。では何がダメなのか。ダメじゃない人間との違いはなんなのか。他人をダメだと否定して自分をダメじゃないと肯定することに躊躇のない人間がダメじゃない人間?まさかそんな。だったら私もダメじゃないはずだ。

嘘のような本当の気持ちで嘘をつかれている。私にとって本当でない限りは全ての言葉は嘘だ。彼氏がいるいない欲しい欲しくない。嘘は嘘。本当ってなんだ。

私にも分かりません。神様がどういう方向に私たちを導こうとしているのか。今はただ祈ります。頑張りましょう。

 

思ったこと

ツイッターランドで知り合った男の子に手を出して捕まった男の話は止めることにした。

直近で観た映画、“ラ・ラ・ランド”とそれについてのツイッターの反応が印象的だったので、私も感想をブログに書く。(字数がいつもの倍以上になった。)

 

ラ・ラ・ランド(以下“ラ”)観た?どうだった?私はよかった、と思った。いい映画だなぁ、と。けれど釈然としないところがチラホラあって、前評判を聞いて泣く気マンマンで行ったのに全然ウルっとしなかった。ツイッターを見ると概ね好評といった感じで、ははぁさてはアタシ恋愛不感症でそういう繊細な感覚が死んだかと不安になって感想を書くことを躊躇っていた。ところが。

菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね | Real Sound|リアルサウンド 映画部

↑この記事。私がラを観てモヤついた所をすべて上手に言語化している。映画評論家らしい視点で。ただ、めちゃくちゃ口が悪いのでラを人生最高の映画だと思った人にどう映るのか私は知らない。

私も語っていい?ネタバレしていい?しちゃっていいのかな?全部、言っちゃうね。 

 

ラ、“男が作った恋愛映画”感がすごい。女も主人公だと思って観ていると痛い目にあう。ヒロインに自分を重ね合わせて感情を動かしながら恋愛映画を観るタイプである私は、鑑賞後に泣いてない自分に気づいた。彼女は表情も感情表現も豊かだったけれど、果たして生身の人間なのかと思うくらいステレオタイプ的な“女”だった。人間的汚さがない。感情移入しにくい。その感が極まったのが、おしゃれなお家ごはんのシーン。あの「恋人ってこんなキッカケで喧嘩するしこんな感じで別れちゃうよね~」感。ラのシナリオに於ける最も重要なシーンの一つなのに、心に残らない。男が失言して女を怒らせてっていう筋も、「ハハ、見ろよ。男ってこういう時にこんな酷いこと言って意地張ってぜんぶダメにしちゃうんだぜ?バカだろ?笑ってくれよ…。」という監督だか誰だか知らないがこれを考えた男の自嘲みたいだった。女は悪くない風に書かれてるのにはリアリティがないし、おかしい。セックス・アンド・ザ・シティなら怒った女がもっと理屈の通らない事を言いながらテーブルの上の物を掴んでは投げるなどひと暴れして「くたばれ!」と吐き捨ててドアを乱暴に閉めるはず。「あの時は俺が全部悪かったんや…」と自虐的に振り返れるから、卑屈な男にとっては極めて理想的な別れ方かもね。あとね、この“自宅で手の込んだ料理を用意して間接照明でムーディーな夜を演出”はフラグです。悪いフラグ。この後、絶対に激しい喧嘩になってどちらかが部屋を出て行き、残された人の怒り&悲しみとステキなお料理&おしゃれな空間の対比が痛々しいパターンか、折角準備したのにすっぽかされるパターンのどちらか。ハリウッド恋愛映画あるあるかよ。第31回ゴールデンラズベリー賞三冠に輝いた“セックス・アンド・ザ・シティ ザ・ムービー2”で観たサマンサの女体盛りの方が人間味がない?なぁ?悔しかったら大陰唇にワサビが沁みたとか言ってみろ!!ファッキンちんぽでもいいぞ!!やめろ言うな!!ミア!!(追記:女体盛り、1作目の方でした💦)

そう、わざわざ1人舞台を観に着てくれるステキな元ルームメイトの女友達も、見せ場はたった一回のミュージカルシーン…。そして、2人がもう恋人に戻れないことを印象付けるために出てきたあの子も…。ラ、2人の恋愛が主軸であり全てで、周囲の人間については少しも掘り下げない。時には2人の人間性すら。そういうのは無駄と思って排除しているのか?単純に世界観を広げられなかったのか。ストーリーに中身・深みがないというのは監督自身が示していることで、ラストの“もしも”の回想と同じ尺で本編も見せられる。むしろ、あの“もしも”ありきで、“もしものようにうまくいかない場合”を膨らませて肉付けしたのが本編のシナリオなのではないか?と思うくらい。が、ラストの演出はそれだけ力が入っているようで際立って良い。アレが途中でアレを立つのも良い。アレがアレしてアレが合うのも良い。良い〜〜!!ニヤリ、あ〜〜!!となった。あのシーンは誰でも自分の恋愛と重ね合わせられるのではないでしょうか。

で、観終わった後の感動とか高揚を一旦脇によけると、“過去の恋愛を振り返る男の話”に見えてくる。ラストシーンだけでなく全編が回想。女を悪者にしたくないあまりに女を美化しすぎた思い出、或いは男の自虐。悪意を込めて言えば「あの女、ほんまえぇ女やったなぁ…わしが偏屈で不甲斐ないばっかりに苦労させたけど…今は幸せそうでよかったわ…俺もそこそこ楽しくやってますわ…こっちは心配せんと、ご主人と達者でな…( ◠ー◠ )」と。いや、そんな悪意をもった見方をする事もないんだけど、極端に言えば、ね…。女々しくも男に偏った目線で過去の恋愛を語るところに同族嫌悪しているんだと思う。

もうとにかく色々考えてしまう映画だった。よく出来た綺麗な作品だし、音楽もダンスもキャストの演技も本当に最高だったね。地上波で放映したら観ると思う。そんな気分。

 ここまで悪口を書き連ねといてアレだけど、こればっかりは完全に個人の恋愛観と好みだと思う!ラ・ラ・ランド、よかったです!

 

おわり

 

 

 

 

日本の皆様へ

症状

このたび、2017年3月、ここ神奈川国立美術館を皮切りに、北は青森から岐阜、岡山、宮古島を巡る「大ヒモテ展-金と蜜の誘惑-」を開催し、我がヒモテ共和国が誇る至宝の数々を日本の皆様へご紹介できることは、私にとってこの上ない喜びです。

ヒモテの芸術文化は古代モテーナイ時代に萌芽し、ウェーイ人の移動、帝政ツラサ国の支配という動乱の時代を経て、初代王ビンタにより建てられた統一シュラン王国で花開きました。

14世紀、シュラン王国の首都であったゲロは、現在では花の都の別名で知られ、往時の芳しくも色鮮やかな貴族文化を伝える都市として全域が世界遺産に指定されています。ゲロのほぼ中央に位置する歴代ビンタ王の住居__サイゼリア宮殿を改装して造られたズツウィタミ美術館は、一年を通じ多くの観光客を迎える我が国随一の美術館です。その中でも毎年1500万人と最も来訪数が多いのは、親愛なる友人__日本の皆様です。日本の皆様の芸術への関心、知的好奇心、見識__これらに深い敬服の念を禁じ得ません。

日本とヒモテの間には多くの文化的差異があります。人種・言語・宗教・気性...__しかしながら、文化保護に対する情熱という一点に於いて我々は強く共感します。両国は古い文化と新しい文化の融合__あるいは衝突__これがごく小さなレヴェル・単位で発生し、独特の空気層を形成するのです。

奇しくも、本年は日本とヒモテの国交樹立からちょうど126周年に当たります。今より47年前、国交樹立79周年を記念して行われた「ヒモテ彫像展」では巨大なワビ石から彫り出された雄壮なヒモテの彫刻が多くの日本の美術ファンを魅了しました。このたびの「大ヒモテ展」ではこれに絵画を加え、より充実した内容であることをお約束します。

特に、本美術展の目玉である《路上で眠るベロベロ人》は今回が初来日となります。17世紀、4世ビンタ王の妻カエレン妃が、自身の寵愛した宮廷画家シューデンナイに描かせたと伝わり、実に177年の間、玉座の間を彩った風景画です。ビンタ家最後の当主となった11世ビンタ大公はその遺言に、この絵を含む全ての王家財産をヒモテ国に寄贈する代わりに一切の国外への持ち出しを禁じました。それは今日でも原則として守られていますが、今回は我が国と日本国美術館協会との間にある格別な信頼関係と協定に基づき、また両国の友好に資することを期して、遺言を違えての初来日そして初渡航となります。この点においても過去に例を見ない画期的な展覧会であることは間違いありません。

本展覧会が賢明なる日本の皆様の眼を楽しませるとともに、両国の親善と相互理解を深めるものと確信しております。この春、ヒモテの華やかな歴史と文化を日本でご堪能ください。

 

在日本ヒモテ共和国大使 イナイレキ=ネンレー

 

 

 

行こうか逃げようか

日常

どこに向かってるのか分からない人を批判したり揶揄するより、どこにも向かおうとしない自分を恥じたい。少なくとも今の私はなんの努力もしていない。使わなくなった感覚たちが鈍っていく。また生きてるのがつらくなってきた。

しょっちゅう感じる生きづらさは全て自分の内面から発露したコンプレックスやトラウマだと理解はしているのに、じゃあどうしたらいいの?という疑問に私は答えない。私は私と音信不通になった。

私にはアンドロギュノスだった頃の半身はいないとつくづく感じる。そんなものがいたら不憫でしょうがないので良い事だ。私の不完全性は私だけで完結してほしいし、そうあるべきだと思う。

真実味のある話をしよう。そんな前置きのある話が信じられなくなった。大方がネット上で見聞きし飽きた陳腐さで、切り貼りしたコラージュ臭に吐きそうになる。私は血反吐で書かれた人間味のある言葉を知りたかっただけ。そんな事も許してもらえないなら、いらない。嫌われようとしたり気に入られようとしたり、一貫性のない支離滅裂な行動で他人の感情を動かすことに汚い愉楽を覚える。胸襟を開き腹を割って中の臓物の汚さを見せようとは思わないが、せめてその汚さを自覚しておこう。

気持ちが分かり合える人と出会いたい。ある程度気遣いし合いながら、それほど気疲れしない人と、燃えるような恋愛でなく、落ち着いて静かに、自分の老いを受け入れながら、ゆっくりと死に臨みたい。そんな気持ちも早々と死んだ。でも、いつかまた生き返ってほしいからガラスの棺桶に入れた。こういった悲しい事故を未然に防ぐ人感センサーを搭載した改造人間にしてほしい。ハートも鉄になるのさ。心ならUSBメモリ〜〜。

最近は生きづらさに苦しむ友人数名と福建土楼のようなアパートを建てて、かもめ食堂のような生活をする妄想に励んでいる。f:id:menono:20170213234604j:image

誘ったのは数名だが、案には概ねご好評いただいている。が、みな資金不足で実現は困難だ。お金がないことも生きづらさの原因の一つだと身にしみた。

 

おわり

 

 

リズムより響きより意味より

思ったこと

言葉について考えることが多い。説明を文書にして提出したり、紙・ネット媒体の記事を作成したり、そんな仕事をしているせい。そういったものは執筆上の縛りがとても多い。正しい言葉遣いと内容の平易さ、専門用語の解説も必要で、書く方も読む方もひと苦労な長文が出来上がる。これを削って言葉足らずになりすぎない程度に簡素化する。ひぇ。考えるだけで疲れてくる。

個人ブログは好きなように書けるのでいい。リズムと流れ、ひらがなカタカナ漢字の配分。対句反復倒置体言止め。硬い表現やわらかい表現。長文なのに内容が薄いからサラッと読み流せるように言い換えて拍をとる。音の響きにこだわって意味を失うほど綺麗な世界ではないし、世界を繊細な言葉で飾っても虚しい。

短歌もそう。意味や技巧よりも音の響きやリズムを重視した作品がもっとあってよい。現代短歌は言葉の雰囲気と発想だ。理路整然は求められていないし、私はあの発想転換ができない。

現代短歌というと、私は歌人黒瀬珂瀾氏が浮かぶ。最近、珂瀾氏が僧侶だと知って意外だった。珂瀾氏の短歌はカタカナ語が多い。それが新鮮な魅力でもあるし、サブカルチャーを経験した世代の若い歌人らしさを上手く演出している。もう一つ珂瀾氏の良さを上げるなら、彼の短歌は骨格に古典がある。そもそも私の短歌好きは百人一首万葉集から始まったので、この擬古文的な言葉回しには惹かれる。それとカタカナ語の組み合わせ、退廃的な世界観にとてつもなく大正ロマン、安く言えばALI PROJECT的なにかを感じる。

5.7.5.7.7という短歌の定形がある。私の大好きな仏足石歌体という奈良時代に滅びた歌体は5.7.5.7.7.7で、末二句が対句。長歌は5.7.5.7.5.7.5.7....7.7。連歌は複数人で5.7.5、7.7、5.7.5、7.7、5.7.5、、、7.7。俳句は5.7.5。全て5と7で作られた明確なリズム。そのリズムを壊す試みとして自由律俳句は存在しているが、私は苦手。アートと言えばアートだが、やった本人だけが楽しいという点で公衆の面前で爆竹を鳴らす行為と通ずる。

とは言え、定められたリズムがあれば崩したくなるのが人情。たとえば短歌の1首31音を変えず9.6.9.7で切る。変拍子的な表現として、私は楽器演奏者などにこういう歌を作って欲しいと思う。

私の世代で短歌を作る人が少ないのは悲しいことだ。5.7.5.7.7、1首31音という枠の中では誰もが平等に心情を表現できるのに、あまりにも見るものが少ない。悲しいことだ。

 

 

お金と価値

日常

ツイッターを見るとお正月休みに実家へ帰った人が多いようだ。カミングアウトしていない地方出身者は20代後半以降、帰省すると親戚から彼女の有無や結婚について詰められるらしい。盆暮れ正月に親戚と集まる文化がなく、成人式の3日前に家族の前でカミングアウトした私にとって無縁な話なので、面白おかしく語られる顚末を興味深く見た。

ただ、その家族からの圧を「人権」と絡めて問題にしているフォロー外のアクティビストが気になった。人権、結婚しない権利、出産しない権利、交際ステータス・セクシャリティを隠す権利。それは確かにあるでしょう。自由だ。ただ、自分の権利を主張するだけで家族も一個人であり権利や人生計画を持っているという意識が欠落してるように感じる。

私は元々20才を過ぎたら家族にはカミングアウトするつもりだった。それは

1.結婚や出産など私のライフイベントに備えて親に貯金などしてほしくないから。

2.孫が生まれたらしたいこと、など叶わない夢を持ってほしくないから。

3.親に嘘をつくのが苦しいから。

この3点。親の金は親が使いたいように使うべきで、親とて独立した個人の人生がある。出来もしない孫のために親が楽しみを我慢して貯金をするなんて耐えられないし、孫の顔を見ることを諦めきれないまま死んでほしくない。カミングアウトされた私の親はショックだったろうが、別段態度が変わるでもなく、私の貯金計画を理解して協力してくれたり、今まで以上に料理を教えてくれるようになったり、私の代以降のお墓の処分について話したり、私にはメリットが大きかったし、そんな親には感謝している。

無闇なカミングアウトを勧めるわけではない。私はたまたま幸運だったと理解している。が、自分の権利を重んじるあまり、家族の人生について考えがないのは怖い。中途半端なセクシャルマイノリティーのアクティビストが書くコラムなどを読むと、世間対自分、ノンケ対ゲイのような二元対立軸で語られがちだ。ゾロアスター教でもあるまいし、きっぱり切り離せるわけないじゃないか。

選択子ナシの夫婦や独身を貫くストレートの男女もいる。そういった人は自分のプランを親に話しているようだ。彼らは親の人生と自分の人生が並行し、深く絡んでいることを理解してる。親の人生設計は息子もストレートがデフォルトだ。息子は嫁をもらって子どもを産むだろうから結婚資金や学資金の準備、体力のあるうちに子育ての手助け。そうあれこれ計画してる親はいい親だ。そういうことを考える親に「他人の人生に干渉するな」的拒絶を示すゲイはアクティビストでもなんでもない永遠の反抗期なのかとも思う。

ちなみに私は親に拒絶されたら土方でもやってある程度生きて、つまらなくなったら死のうと思っていたので本当に恵まれていた。

ゴシップ的に結婚について触れてくるデリカシーのないやつは殴れ。