マルクの眼

千字一夜

失われていくもの

 

古く土葬の風習は全国にあり、薪など燃し木の入手し難く、また高価であった地域に於いては火葬よりも深く暮らしに根付いていた。火葬場の本格的な普及は戦後であり、都市部の人口増加に対応してのことである。加えて、住民の退去した被差別部落跡地の利用を巡る施策が背景の一部にあったことも記憶に留めておくべきであろう。

土葬と一口に言っても、地方によってその差異は大きい。弥生時代の甕棺が如き壺、あるいは深い木桶に足を折った胎児の姿勢で埋められることもあれば、直接土へ仰向けに寝かされることもあった。

島根県の某地方では、里に近き山の麓に仮墓地があり、人死が出れば先ずそこへ埋葬した。そして一年後に墓を掘り返し、肉が落ち白骨となった骸を親族で洗い清め、山奥にある先祖代々の本墓(ホンバカ)に埋葬し直す。これを洗骨、改葬などと称した。奄美諸島や沖縄にも見られた習俗だという。これの意味するところは、衰え、死に、腐る、か弱き不浄の肉体を脱ぎ捨て、清らかな御霊として祖霊の一柱に加え、永く子孫と地域を守護せしめんとする古い祖霊信仰である。

殊に、深山には豊穣を齎し給う祖霊神の宿るという。武田節の一節「祖霊坐しますこの山河」ではないが、春の雪解けとともに山から川を伝って田畑に到り、里に実りを運ぶ神の存在は往古より広く信じられたことである。後に天狗や大大坊(ダイダラボウ・デエダラボッチ)に変容した恐ろしき山の神々も、かつてはこの祖霊の一柱であった。

アイヌの信仰儀礼に「イオマンテ」がある。平たく言えば、動物の姿で現世に降臨したカムイ(神霊)からその恵み(毛皮・肉)を頂戴し、丁重なる感謝を捧げて天上界へ送り還す儀式である。こうして満足した神の再臨を仰ぐのだ。狩った動物の肉や毛皮を無駄にすると、カムイは仮の姿を捨てられず地上に囚われ、悪神となって人々を祟るのだという。

生身の肉体を脱ぎ捨て、恵みを齎す聖なる霊体へ昇華する儀式という点で、イオマンテは洗骨・改葬の類例といえる。

さて、話を身近なところへ移そう。

私の住む土地の古老が曰うことには、この地方に於いても昔は土葬が行われ、昭和20年代半ばに失くなったそうだ。それまで死人が出れば親族・地縁・隣組・村の若衆が墓穴を掘り、葬列には棺桶を担いだものだった。この老人は日蓮宗寺院の檀家である。昭和初期の葬送儀礼に宗派間でどの程度の差異があったかは不明だが、この話に三つの見るべき点がある。

Ⅰ.葬列で「チン・ドン・ジャーン」という"鳴り物"があった。

鼓鈸三通(くはつさんつう)といい、太鼓やシンバルのような三種の打楽器を、僧侶あるいは参列者が打ち鳴らすものだ。

葬儀司会者のための曹洞宗解説「鼓鈸三通(くはつさんつう)」について - YouTube

魔除けとも仏の徳を讃える音楽ともいわれる。

Ⅱ.仮面を着けた四人の男が棺桶の前後を行進していた。

棺桶の前に二人、後ろに二人がついた。仮面はそれぞれ異なる化け物の顔で、横に長いもの、縦に長いもの、鳥のように口が突き出たものなどがあったという(一枚の容貌は古老が失念)。墓地に着き埋葬が済むと、この仮面は土饅頭の周りに立て、死体を守る魔除けとした。

Ⅲ.墓地からの帰りは行きと違う道を通り、途中、ワラ縄でできた輪っかを路傍に捨てた。

このワラ縄の輪は金剛草履(コンゴゾーリ)といい、この地域特有の習俗として既に調査がなされている。墓地や火葬場への行きと帰りで道を変え草履を捨て、悪いものが付いてこないようにする慣習は全国にあるが、早いうちに草履が廃れ下駄あるいは靴の文化となったために、金剛草履という簡易的な草履を以って履物を捨てる習俗を維持したものか。

前二つは死者を守るもの、三つ目は生者を守るものと性格が異なるが、どれも葬送に寄って来る"魔"の存在を仮定し、その"魔"を遠ざけようとしている。"魔"について考える時、生者の対策が具体性を持っていることに気づく。護符や塩のような神仏の利益・加護に基づく漠然としたものではない。Ⅰ、Ⅱから思い浮かぶのは野生動物だ。死体に惹かれてやってくる動物を大きな音と化け物の仮面で脅し追い払う知恵が長い年月のうちに形骸化し、儀礼として定着していったものか。

Ⅲは金剛草履こそ地域固有の習俗だが、行き帰りの道を変えたり履物を捨てるといったことは現代の葬儀でも行われている。葬儀社の説明では、墓地・火葬場にいる悪いものや故人が寂しくて尾けて来るので、道を変え足跡を変え、追跡を巻くのだという。しかし、故人や葬場を彷徨う霊魂が参列者に憑いてくるならまだしも、やや遅れて足跡を辿ってくるだろうか。草履を捨てる事にも別の合理的な意味があったのだろう。

草履を捨てて追っ手から逃れる行為に、ある伝承が思い出される。

かつてこの国に生息していたニホンオオカミ(ヤマイヌ)の性質は臆病で慎重、人を襲うことは滅多になかった。大抵は暗い山道を歩く人の後をつけ、自分の縄張りから出て行くのを見届けるだけだった。この習性を「送り犬・送り狼」と呼ぶ。だが、弱っていると判断されれば忽ち襲われたともいう。狼の追跡は家まで及ぶことがあったが、そんな時は「見送り御苦労」などと声を掛けて、食べ物や塩を放ってやる。すると狼はそれを咥えて山へ帰るのだ。やらないと、狼は一晩中家の周りを彷徨き、翌朝には戸外で死んだ馬や鶏が見つかったという。

送り狼に与えるのは食べ物だけではない。それが草履である。理由は不明ながら、家までついてきた狼にそれまで履いていた草履を放ると、それを咥えて満足したように去って行くというのだ。熊や狐など他の野生動物には見られない行動である。

この性質により、墓場からの追跡者を狼に比定できる。狼が死体の周りを飛び跳ねたり死体にマーキングする姿が江戸時代に観察されていることも、彼らが死体に執着する獣であった傍証となろう。死体目当てで墓場へやってきた狼が更なる獲物を得ようと足跡を追跡してきた場合の備えとして、途中に草履を捨て置いたのだろう。

狼の近縁種ジャッカルも墓地を彷徨くところをよく観察されたらしい。エジプトではその姿を「死者を守護している」と解釈され、冥府の神アヌビスとして信仰されていた。

日本にも神の眷属とされる生き物がいる。稲荷の狐、春日・鹿島の鹿、熊野の烏、伊勢の鶏、山王・日枝の猿、天神の牛、松尾の亀、三輪山・弁天の蛇、御嶽・三峰の山犬などである。中でも蛇と山犬は別格で、神の使いでありながらそれ自身も神とされた。山犬の神は「大口真神」と称される。耳まで裂けた口に咬まれることを恐れ、その存在を畏んだ昔の人々の心情が垣間見える名だ。先にニホンオオカミの性質を臆病で慎重と述べたが、これは幕末から明治初頭の絶滅直前の姿であって、中世から性質の荒い個体が討伐されていった結果、おとなしい狼が生き残ったとも言われている。古代の人々にとって、狼は恐怖そのものだったのだろう。

日本人の"咬むもの"への恐怖を物語る例がある。柳田國男は「化け物を指す語」として東北地方を中心に見られる、モウ・モウコ・モッコ・モンモ・モモンガーと、西日本に見られるガゴジ・ガンゴ・ガンゴジ・ガモ・ガガモ・ガモージーを同じ一語からの派生と断じた。それは化け物が人の前に現れる時に発する声「咬もうぞ」だという。アクセントの違いで「モウ」が強調された東日本と、カがガに転じた「ガモ」の西日本に分かれたという。柳田はその言い回しから語の発生を中世以前に求める。現代の言語学会から見ればこの語源説に異論もあろうが、妖怪や化け物に古代の神の零落したものが多く存在することを踏まえると、大口真神など獣身の神が神性を失った姿としての「カモウゾ」は妥当である。人語を操る点に物言わぬ魑魅魍魎よりも高位の神であった痕跡が僅かに残されたのだろう。

自然崇拝の多神教では、神は性格の善悪を問われない。その超人的な力への畏怖が信仰の根源を成しているのだ。逆説的に、"大神"が"魔"や"妖怪"に落ちぶれたのは、狼から荒々しい性格が失われ、恐怖の対象でなくなっていったことと無関係ではあるまい。

今日伝わっているニホンオオカミの民話は、その生き物の生態を知るのに充分とは言い難い。今後は日本各地に残る古い信仰儀礼から狼の痕跡を見出し、その一つ一つを掬い上げて生物学的アプローチをとって更なる生態の解明を行うことが求められる。