マルクの眼

千字一夜

また何者かになるということ

 

「何者にもなれなかった」と言われる。私もそう思う。別の見方をすれば、私は私になってしまった。そうとも言える。「何者かになりたい」は自分ではない何者かになって我を苛む恐怖や焦燥から我を救いたまえと願う祈り。かの木村カエラは言いました。『自分らしくいるのが怖いなら 誰かのフリしたっていいじゃない‼︎』。パロディが好きで誰か・何かしらの文体を真似る事に固執する私も或いは自分らしくいるのが怖いのやも知れぬが、そのパロディの中に潜む自我や自己主張こそが己の本質であって、模倣しきれず溢れる凡庸の泉に足を浸しながら水面に映る自分を見つめている。

「何者にもなれなかった」の前提となる欲求、「何者かになりたい」の"何者か"とは何者なのか。自分以下の社会的弱者ではない。ならば平均的な、平々凡々とした人間か、といえばそうでもない。大抵"特別な肩書きを持った人"が"何者か"である。かの中田ヤスタカは言いました。『ねぇ みんなが 言う「普通」ってさ なんだかんだっで 実際はたぶん 真ん中じゃなく 理想にちかい だけど 普通じゃ まだもの足りないの』。「特別な人間になりたい」をマイルドに、社会に受け入れられる表現に直すと「何者かになりたい」になる。そうやって自分の理想像を濁らせて、また、そうなれなかった時にかく恥を最小限に止めようとして、「羨望を集めたい」「チヤホヤされたい」という実に凡愚的欲求を哲学めかして抱き、結果できあがるのが「自称何者にもなれなかった人間」だ。かのサカナクション山口一郎は言いました。『好きな服はなんですか?好きな本は?好きな食べ物は何?そう そんな物差しを持ち合わせてる僕は凡人だ』。山口一郎ですら凡人で私たちが何になれようか。

山月記の李徴が語る『我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』とは、「己は何者かになれる」と信じながら、才能不足を自覚することを恐れ、何者かになる努力を真に行わない魂だ。私は私は私は何者になった何者にもなれなかった何者だ何者だ何者だと繰り返し自問自答するお前は逃れようもなくお前だ。かの仏陀は言いました。『他人のしたこと、しなかったことを見るな。ただ自分のしたこと、しなかったことだけを見よ。』

相対で見れば、"何者か"と呼べるのはごく一部の頂点。本来、我々は皆、絶対的に"己"であり、それは"何者か"である。問われるべきは"何をする何者か"であって、その肩書きや地位ではない。