読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マルクの眼

千字一夜

リズムより響きより意味より

思ったこと

言葉について考えることが多い。説明を文書にして提出したり、紙・ネット媒体の記事を作成したり、そんな仕事をしているせい。そういったものは執筆上の縛りがとても多い。正しい言葉遣いと内容の平易さ、専門用語の解説も必要で、書く方も読む方もひと苦労な長文が出来上がる。これを削って言葉足らずになりすぎない程度に簡素化する。ひぇ。考えるだけで疲れてくる。

個人ブログは好きなように書けるのでいい。リズムと流れ、ひらがなカタカナ漢字の配分。対句反復倒置体言止め。硬い表現やわらかい表現。長文なのに内容が薄いからサラッと読み流せるように言い換えて拍をとる。音の響きにこだわって意味を失うほど綺麗な世界ではないし、世界を繊細な言葉で飾っても虚しい。

短歌もそう。意味や技巧よりも音の響きやリズムを重視した作品がもっとあってよい。現代短歌は言葉の雰囲気と発想だ。理路整然は求められていないし、私はあの発想転換ができない。

現代短歌というと、私は歌人黒瀬珂瀾氏が浮かぶ。最近、珂瀾氏が僧侶だと知って意外だった。珂瀾氏の短歌はカタカナ語が多い。それが新鮮な魅力でもあるし、サブカルチャーを経験した世代の若い歌人らしさを上手く演出している。もう一つ珂瀾氏の良さを上げるなら、彼の短歌は骨格に古典がある。そもそも私の短歌好きは百人一首万葉集から始まったので、この擬古文的な言葉回しには惹かれる。それとカタカナ語の組み合わせ、退廃的な世界観にとてつもなく大正ロマン、安く言えばALI PROJECT的なにかを感じる。

5.7.5.7.7という短歌の定形がある。私の大好きな仏足石歌体という奈良時代に滅びた歌体は5.7.5.7.7.7で、末二句が対句。長歌は5.7.5.7.5.7.5.7....7.7。連歌は複数人で5.7.5、7.7、5.7.5、7.7、5.7.5、、、7.7。俳句は5.7.5。全て5と7で作られた明確なリズム。そのリズムを壊す試みとして自由律俳句は存在しているが、私は苦手。アートと言えばアートだが、やった本人だけが楽しいという点で公衆の面前で爆竹を鳴らす行為と通ずる。

とは言え、定められたリズムがあれば崩したくなるのが人情。たとえば短歌の1首31音を変えず9.6.9.7で切る。変拍子的な表現として、私は楽器演奏者などにこういう歌を作って欲しいと思う。

私の世代で短歌を作る人が少ないのは悲しいことだ。5.7.5.7.7、1首31音という枠の中では誰もが平等に心情を表現できるのに、あまりにも見るものが少ない。悲しいことだ。