マルクの眼

千字一夜

失われていくもの

 

古く土葬の風習は全国にあり、薪など燃し木の入手し難く、また高価であった地域に於いては火葬よりも深く暮らしに根付いていた。火葬場の本格的な普及は戦後であり、都市部の人口増加に対応してのことである。加えて、住民の退去した被差別部落跡地の利用を巡る施策が背景の一部にあったことも記憶に留めておくべきであろう。

土葬と一口に言っても、地方によってその差異は大きい。弥生時代の甕棺が如き壺、あるいは深い木桶に足を折った胎児の姿勢で埋められることもあれば、直接土へ仰向けに寝かされることもあった。

島根県の某地方では、里に近き山の麓に仮墓地があり、人死が出れば先ずそこへ埋葬した。そして一年後に墓を掘り返し、肉が落ち白骨となった骸を親族で洗い清め、山奥にある先祖代々の本墓(ホンバカ)に埋葬し直す。これを洗骨、改葬などと称した。奄美諸島や沖縄にも見られた習俗だという。これの意味するところは、衰え、死に、腐る、か弱き不浄の肉体を脱ぎ捨て、清らかな御霊として祖霊の一柱に加え、永く子孫と地域を守護せしめんとする古い祖霊信仰である。

殊に、深山には豊穣を齎し給う祖霊神の宿るという。武田節の一節「祖霊坐しますこの山河」ではないが、春の雪解けとともに山から川を伝って田畑に到り、里に実りを運ぶ神の存在は往古より広く信じられたことである。後に天狗や大大坊(ダイダラボウ・デエダラボッチ)に変容した恐ろしき山の神々も、かつてはこの祖霊の一柱であった。

アイヌの信仰儀礼に「イオマンテ」がある。平たく言えば、動物の姿で現世に降臨したカムイ(神霊)からその恵み(毛皮・肉)を頂戴し、丁重なる感謝を捧げて天上界へ送り還す儀式である。こうして満足した神の再臨を仰ぐのだ。狩った動物の肉や毛皮を無駄にすると、カムイは仮の姿を捨てられず地上に囚われ、悪神となって人々を祟るのだという。

生身の肉体を脱ぎ捨て、恵みを齎す聖なる霊体へ昇華する儀式という点で、イオマンテは洗骨・改葬の類例といえる。

さて、話を身近なところへ移そう。

私の住む土地の古老が曰うことには、この地方に於いても昔は土葬が行われ、昭和20年代半ばに失くなったそうだ。それまで死人が出れば親族・地縁・隣組・村の若衆が墓穴を掘り、葬列には棺桶を担いだものだった。この老人は日蓮宗寺院の檀家である。昭和初期の葬送儀礼に宗派間でどの程度の差異があったかは不明だが、この話に三つの見るべき点がある。

Ⅰ.葬列で「チン・ドン・ジャーン」という"鳴り物"があった。

鼓鈸三通(くはつさんつう)といい、太鼓やシンバルのような三種の打楽器を、僧侶あるいは参列者が打ち鳴らすものだ。

葬儀司会者のための曹洞宗解説「鼓鈸三通(くはつさんつう)」について - YouTube

魔除けとも仏の徳を讃える音楽ともいわれる。

Ⅱ.仮面を着けた四人の男が棺桶の前後を行進していた。

棺桶の前に二人、後ろに二人がついた。仮面はそれぞれ異なる化け物の顔で、横に長いもの、縦に長いもの、鳥のように口が突き出たものなどがあったという(一枚の容貌は古老が失念)。墓地に着き埋葬が済むと、この仮面は土饅頭の周りに立て、死体を守る魔除けとした。

Ⅲ.墓地からの帰りは行きと違う道を通り、途中、ワラ縄でできた輪っかを路傍に捨てた。

このワラ縄の輪は金剛草履(コンゴゾーリ)といい、この地域特有の習俗として既に調査がなされている。墓地や火葬場への行きと帰りで道を変え草履を捨て、悪いものが付いてこないようにする慣習は全国にあるが、早いうちに草履が廃れ下駄あるいは靴の文化となったために、金剛草履という簡易的な草履を以って履物を捨てる習俗を維持したものか。

前二つは死者を守るもの、三つ目は生者を守るものと性格が異なるが、どれも葬送に寄って来る"魔"の存在を仮定し、その"魔"を遠ざけようとしている。"魔"について考える時、生者の対策が具体性を持っていることに気づく。護符や塩のような神仏の利益・加護に基づく漠然としたものではない。Ⅰ、Ⅱから思い浮かぶのは野生動物だ。死体に惹かれてやってくる動物を大きな音と化け物の仮面で脅し追い払う知恵が長い年月のうちに形骸化し、儀礼として定着していったものか。

Ⅲは金剛草履こそ地域固有の習俗だが、行き帰りの道を変えたり履物を捨てるといったことは現代の葬儀でも行われている。葬儀社の説明では、墓地・火葬場にいる悪いものや故人が寂しくて尾けて来るので、道を変え足跡を変え、追跡を巻くのだという。しかし、故人や葬場を彷徨う霊魂が参列者に憑いてくるならまだしも、やや遅れて足跡を辿ってくるだろうか。草履を捨てる事にも別の合理的な意味があったのだろう。

草履を捨てて追っ手から逃れる行為に、ある伝承が思い出される。

かつてこの国に生息していたニホンオオカミ(ヤマイヌ)の性質は臆病で慎重、人を襲うことは滅多になかった。大抵は暗い山道を歩く人の後をつけ、自分の縄張りから出て行くのを見届けるだけだった。この習性を「送り犬・送り狼」と呼ぶ。だが、弱っていると判断されれば忽ち襲われたともいう。狼の追跡は家まで及ぶことがあったが、そんな時は「見送り御苦労」などと声を掛けて、食べ物や塩を放ってやる。すると狼はそれを咥えて山へ帰るのだ。やらないと、狼は一晩中家の周りを彷徨き、翌朝には戸外で死んだ馬や鶏が見つかったという。

送り狼に与えるのは食べ物だけではない。それが草履である。理由は不明ながら、家までついてきた狼にそれまで履いていた草履を放ると、それを咥えて満足したように去って行くというのだ。熊や狐など他の野生動物には見られない行動である。

この性質により、墓場からの追跡者を狼に比定できる。狼が死体の周りを飛び跳ねたり死体にマーキングする姿が江戸時代に観察されていることも、彼らが死体に執着する獣であった傍証となろう。死体目当てで墓場へやってきた狼が更なる獲物を得ようと足跡を追跡してきた場合の備えとして、途中に草履を捨て置いたのだろう。

狼の近縁種ジャッカルも墓地を彷徨くところをよく観察されたらしい。エジプトではその姿を「死者を守護している」と解釈され、冥府の神アヌビスとして信仰されていた。

日本にも神の眷属とされる生き物がいる。稲荷の狐、春日・鹿島の鹿、熊野の烏、伊勢の鶏、山王・日枝の猿、天神の牛、松尾の亀、三輪山・弁天の蛇、御嶽・三峰の山犬などである。中でも蛇と山犬は別格で、神の使いでありながらそれ自身も神とされた。山犬の神は「大口真神」と称される。耳まで裂けた口に咬まれることを恐れ、その存在を畏んだ昔の人々の心情が垣間見える名だ。先にニホンオオカミの性質を臆病で慎重と述べたが、これは幕末から明治初頭の絶滅直前の姿であって、中世から性質の荒い個体が討伐されていった結果、おとなしい狼が生き残ったとも言われている。古代の人々にとって、狼は恐怖そのものだったのだろう。

日本人の"咬むもの"への恐怖を物語る例がある。柳田國男は「化け物を指す語」として東北地方を中心に見られる、モウ・モウコ・モッコ・モンモ・モモンガーと、西日本に見られるガゴジ・ガンゴ・ガンゴジ・ガモ・ガガモ・ガモージーを同じ一語からの派生と断じた。それは化け物が人の前に現れる時に発する声「咬もうぞ」だという。アクセントの違いで「モウ」が強調された東日本と、カがガに転じた「ガモ」の西日本に分かれたという。柳田はその言い回しから語の発生を中世以前に求める。現代の言語学会から見ればこの語源説に異論もあろうが、妖怪や化け物に古代の神の零落したものが多く存在することを踏まえると、大口真神など獣身の神が神性を失った姿としての「カモウゾ」は妥当である。人語を操る点に物言わぬ魑魅魍魎よりも高位の神であった痕跡が僅かに残されたのだろう。

自然崇拝の多神教では、神は性格の善悪を問われない。その超人的な力への畏怖が信仰の根源を成しているのだ。逆説的に、"大神"が"魔"や"妖怪"に落ちぶれたのは、狼から荒々しい性格が失われ、恐怖の対象でなくなっていったことと無関係ではあるまい。

今日伝わっているニホンオオカミの民話は、その生き物の生態を知るのに充分とは言い難い。今後は日本各地に残る古い信仰儀礼から狼の痕跡を見出し、その一つ一つを掬い上げて生物学的アプローチをとって更なる生態の解明を行うことが求められる。

 

 

 

流されていくこと

街の灯りが綺麗なのは、人の命を燃やしているからだと言う。言ったのは私だ。

 

"何気ない日常"という言葉で括られない人生のうちの貴重な1日をただ無為に過ごすことに罪悪感を覚えられるのは我々の感性が人工知能より勝れている点だろうか。

 

流転しなければならない万物も諸行無常な物質世界も私たちにとってはただ一時の気の迷いにも似た経験に過ぎず、その荘厳な流れによって渦巻き逆立てられ発生せざるを得なかった力を感情と呼ぶならただ無為に過ごす日々に心を弄ばれるのも必定と言える。流される笹舟か立ち止まる水車か。全て法則に従って移ろい続けるエネルギーが私たちの身をいつか壊すとしても私たちは絶えず行くその流れを受け入れ砕けわれても末に会うことを願いながらその日を待つしかない。

 

台風が去った翌日の朝、まだ落ち葉や枝などがびちょびちょと道路を埋め尽くし水の匂いが立ち込めるその中を神聖な気持ちで歩いたその時、等しく私たちは祝福を受けている。

 

時に燃え、流れ、回り、刺さる、目に見えないエネルギーに私たちが意味や理由を問うことの意義をこそ私は問う。

 

 

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また何者かになるということ

 

「何者にもなれなかった」と言われる。私もそう思う。別の見方をすれば、私は私になってしまった。そうとも言える。「何者かになりたい」は自分ではない何者かになって我を苛む恐怖や焦燥から我を救いたまえと願う祈り。かの木村カエラは言いました。『自分らしくいるのが怖いなら 誰かのフリしたっていいじゃない‼︎』。パロディが好きで誰か・何かしらの文体を真似る事に固執する私も或いは自分らしくいるのが怖いのやも知れぬが、そのパロディの中に潜む自我や自己主張こそが己の本質であって、模倣しきれず溢れる凡庸の泉に足を浸しながら水面に映る自分を見つめている。

「何者にもなれなかった」の前提となる欲求、「何者かになりたい」の"何者か"とは何者なのか。自分以下の社会的弱者ではない。ならば平均的な、平々凡々とした人間か、といえばそうでもない。大抵"特別な肩書きを持った人"が"何者か"である。かの中田ヤスタカは言いました。『ねぇ みんなが 言う「普通」ってさ なんだかんだっで 実際はたぶん 真ん中じゃなく 理想にちかい だけど 普通じゃ まだもの足りないの』。「特別な人間になりたい」をマイルドに、社会に受け入れられる表現に直すと「何者かになりたい」になる。そうやって自分の理想像を濁らせて、また、そうなれなかった時にかく恥を最小限に止めようとして、「羨望を集めたい」「チヤホヤされたい」という実に凡愚的欲求を哲学めかして抱き、結果できあがるのが「自称何者にもなれなかった人間」だ。かのサカナクション山口一郎は言いました。『好きな服はなんですか?好きな本は?好きな食べ物は何?そう そんな物差しを持ち合わせてる僕は凡人だ』。山口一郎ですら凡人で私たちが何になれようか。

山月記の李徴が語る『我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』とは、「己は何者かになれる」と信じながら、才能不足を自覚することを恐れ、何者かになる努力を真に行わない魂だ。私は私は私は何者になった何者にもなれなかった何者だ何者だ何者だと繰り返し自問自答するお前は逃れようもなくお前だ。かの仏陀は言いました。『他人のしたこと、しなかったことを見るな。ただ自分のしたこと、しなかったことだけを見よ。』

相対で見れば、"何者か"と呼べるのはごく一部の頂点。本来、我々は皆、絶対的に"己"であり、それは"何者か"である。問われるべきは"何をする何者か"であって、その肩書きや地位ではない。

 

 

"麺屋 久佐磨 -kusama-" 本日開店

 

 

本日、私の終生の念願であった"麺屋 久佐磨-kusama- "を開店し、みなさまにラーメンを味わっていただきたいという私の心からの希望が達せられました。これは私の生涯に於ける最大の喜びであります。

私の人生はラーメンによって開かれました。私はラーメンを食べることに、スープの奥深い輝きに、深く打たれ、心を打たれ、食と生命の深い交わりの中で、幼かりし頃より私を毎日おそってくる死への憧憬、最愛なる人類に対する私の限りない畏敬の念とを抱きながら、世界のあらゆる所で闘い、自分の人生をラーメンに捧げてきました。私は人生をラーメンの求道の中に置いて、生命の尊厳に対する深い憧れ、人類の素晴らしさが初めて現れた。今この時にも私の人生は始まっているのです。

私は、私のラーメンのスープの一滴、メンマの一口でも、ラーメンを愛するみなさまの中に残したい、新しいラーメンの真髄を見つけたい。すべての人類に捧げる私の心の底からの敬意と愛情、調理への意欲と美食への希望に対する私の情熱を、みなさまに見て、香って、味わっていただければ、これに勝る喜びはありません。そして、私のラーメンを味わった若い人たちに、私を乗り越え、不滅の志をもって高く高く、宇宙の果てまでも、最高のラーメンを追求して貰いたい。ラーメンによって救われ、死の憂鬱の影を振り捨てて、心からスープと麺への賛美を歌わんとする、私の生きて来た道をひとつでも見つけていただければ、本当に嬉しい。

ラーメンは素晴らしい。私は自分のラーメンの力を信じて、何十年も闘ってきました。今も世界には戦争や飢餓、貧困、人間に対する沢山の憎しみや傷跡が絶えません。私はラーメンの力、愛の力をもって、世界に平和と美食の素晴らしさを伝えたい。全てのかがやく生命に、私の精魂こめた温かいラーメンをぜひ食べて欲しい。

さあ、ラーメンは無限だ。もっと独創的なラーメンを沢山作りたい。もっと時間が欲しい。私は生きたい。無限の生と死の輝きをもって、命の限り、五徳の炎が消える終わりの日まで、私はラーメンを作り続けたい。その日まで、あなたたちの志をもって私を鼓舞していただきたい。私が死んだあともみなさま、どうぞ私のラーメンを愛してほしい。私の愛するこの店を、是非みなさまの最大の愛をもって一生愛して頂きたいと思っております。よろしくお願い致します。

                                平成29年11月7日  店主 謹白

 

メニュー表(価格は変動する場合があります)

・華やいだ幸福の夢 ¥680

・ネギ華やいだ幸福の夢 ¥730

・チャーシュー華やいだ幸福の夢 ¥830

・ネギチャーシュー華やいだ幸福の夢 ¥880

・憂える我が心 ¥730

・ネギ憂える我が心 ¥780

・チャーシュー憂える我が心 ¥830

・ネギチャーシュー憂える我が心 ¥930

・辛味憂える我が心 ¥830

トッピング

・ネギ ¥50

・メンマ ¥50

・チャーシュー(バラ2枚) ¥100

・チャーシュー(ロース2枚) ¥120

・わたしの死 ¥100

単品

・永劫のかがやきを持った二つのまなこ(6ヶ) ¥250

・永劫のかがやきを持った二つのまなこ(10ヶ) ¥320

・野菜永劫のかがやきを持った二つのまなこ(6ヶ) ¥300

・野菜永劫のかがやきを持った二つのまなこ(10ヶ) ¥380

・ネギチャー丼 ¥150

 

ゲイ鏡「ニベロの待ち合わせ」

 

平成で言う何年のことだったでしょうか。

今となっては昔のことですが、友人と待ち合わせをするため新宿二丁目にあったカフェ・ベローチェという喫茶店におりました時、前髪系・ゆるポ系の男性同性愛者があまた笑いさざめく中に、際立って齢を重ねた様子の男性同性愛者が二人、向き合い座っていらっしゃいました。

しみじみと、

「随分と年寄りがいたものだなぁ」

と感心して見ておりましたが、彼らの内の一人が楽しそうに目を合わせて言うことには、

「十代で地元を捨て、華々しい出会いに胸躍らせながらこの都に上った若者たちも、歳を重ね終には何処かへ去ってしまう泡沫の世の中で、またこうして此処で貴方にお会いできたことは大変な喜びです。昔はフォロワー数3000台の店子として活躍をされていた貴方が、交際相手に裏切られて借金を負い、失意のままこの街を後にされた頃は、私たちも随分と心配をしたものです。今では肌は老い、肥え太って頭髪も疎らですが、まだ"リッキーくん"と、あの頃の源氏名でお呼びしてもよろしいのでしょうか。」

と言うので、もう一人の男性が、

「世の人の言葉に"美人薄命"とありますので、私もあの夏目雅子のように美しいままこの生を終えるものと思っておりましたが、何の因果かこの様に恥を晒して生きております。しかし、こうしてまた貴方に会えた事で、恥を忍んで生き長らえた甲斐があったと嬉しくも思うのですよ。絶えず流れていく川の水のように人々が入れ替わるこの都で、私が初めて"街"へ出た十八・九のころから"カシオレ一杯で五時間粘るババア"と有名だった貴方が、こうして餓鬼のような様でも生きて暮らしていることは、いかなる神仏のご加護か邪鬼悪霊と契りのあったことでしょうか。近頃は昔語りができる人もめっきり減りました。どうぞ今日はその名前でお呼びください。」

と言いますので、カシオレババアは、

「かつて夏目雅子に自らを重ねた貴方が今や猪八戒とは、この世の栄枯盛衰とはこのことを言うのでしょう。常々プリン体の摂取に気をつけてきた私が、今も岡田奈々のようなスレンダー体型を維持しているのは本当に素晴らしいです。それにしても、まあ。貴方が高血圧で逝ってしまう前にまた会えたことを、つくづく嬉しく思う今日ですよ。」

と曰うので、このデブとキショガリは一体どれ程の古釜なのだろうと、一人二人となく辺りに座る男性同性愛者たちは皆、思わず口をつぐんでその二人の昔語りを興味津々に盗み聴くのでありました。

 

 

 

ネオ・ネット・ネオテニー

14才の男の子がエッチな画像をTwitterに投稿していて大変ショックだった。

精神が未熟なまま性的に成熟してしまうのが人間の自然とは言え、動物的な本来でいえば未熟なオスに性交のチャンスはない。なのにSNSの進歩は未熟な人とそれを手篭めにしたい人を簡単に繋いでしまう。私が子どもの頃、斯様の事がなかったかと言われればそうでもないんだけど、精神未成熟のまま成長できない人を見かけることが増えた。

"性的に需要がある"ことは人間としての一つの完成形と言えるわけで、それが向上心を削ぎ、内面的成長を阻害するのではないかと思う。私の出た学区ではイケメンほど低学歴・低所得で早めに結婚を済ませて子どもを作っている。それが不幸だということではないのだけれど、果たして彼らが選択して今の未来を作ったのか甚だ疑問だ。しかし結果的に早熟であっても、得たものが現実に形となって彼らの人生を彩るならばそれは完成に向かっていくだろう。SNSでちやほやされる少年らとは、そこが根本的に違う。

悲しいことに犯罪的な若さすらネット上では持て囃されるかもしれないが、それは虚構で、まやかしで、現実ではない。いくらフォロワーを増やしても、それは自分の力ではなく、若さという希少価値でしかない。電柱の蛍光灯が群がる蛾の数を誇りますか?無料で見られるエロ動画が自分の再生回数を誇りますか?辛く虚しいことだ。

同性愛に悩んで自殺するくらいなら、SNS上で自分に需要があること知り生きていて欲しいとは思う。だけど未熟な若者を誑かし唆し性的搾取を行おうとする輩はいるわけで、その空虚な"人気"が彼らの現実にどんな悪影響を及ぼして、どんな破滅に向かわせるのか想像もできない。いざとなれば体を売ればいいとか、そんな場当たり的な思考を養ってほしくない。精神的に向上心のない者はばかだ。小説の登場人物だが、私はこの言葉を重く受け止めて死んだKのことが忘れられない。

若くしてネットに染まって、悪い大人を弄ぶくらい強かに生きている子もいるけれど、そのツケが学生生活の馴染めなさや社会人として身の振り方下手として表出することもある。

なんにせよ大人が悪い!あまりにもインモラルだ。やり場のない母性と保護欲が暴発して有害図書認定したりPTA役員を務めそうな私の目に中学生のエロ垢を触れさせないでくれ。私は心穏やかに生きたい。

 

我が同窓

ノンケのチンコを食うかもしれない。

こういう話をするとウッとなって即座に読むのを止めてしまう人がいるけど、まあそれでもいい。そのノンケは私の高校の時の友人で、思えばもう10年の付き合いだ。年2回、夏と冬に会っている10人の友人の内の1人で、仲がいい。彼は昔からいじられキャラだが頭がいいので自分から笑いをとっていくことも多く、学年でも有名人だった。僕と彼の関係はなんとも言い難いが、ベクトルは違うもののお互いに面白い人間だと思っているので、会うたびの情報交換は一つの楽しみになっている。

ストレートで慶應の理工に合格し、企業偏差値63の会社に就職した自称"4K"(高身長・高学歴・高収入・慶應)の彼だが、宿命のライバルがいる。学生時代から陸上のタイムやテストの結果などで事ある毎に競ってきたそのライバルは、奇しくも慶應経済・企業偏差値61に就職という似たような経歴を辿っている。ライバルは一浪で身長も高くないが、性格が良く人徳があるのでいつも人の輪の中心におり、付き合いの長い彼女がいる。実のところ彼ら2人は仲が良いのだけれど、我々仲間が2人の競う姿を楽しみにしているので、お互いが「お?ビビってんのか?笑」と挑発しあってプロレスをしてくれるのだ。

2年前に集まったときは4Kにも彼女がいたので「彼女のスペックで競え」と我々外野は囃し立てたけど、流石にそれはゲスすぎて実現はしなかった。その代わりに今後の彼らの人生で「学歴・年収・家・妻・子」の5種目を競う「人生五種」が始まった。学歴については浪人なし理系の4Kに軍配が上がり、年収は拮抗。なかなかいい勝負になりそうで、また集まる楽しみが増えた。

ところが先日会った時、4Kに元気がなかった。我々の集まりとは別に数日前クラス会があり、そこでライバルが結婚発表をしたらしい。私は諸用があって欠席だったので知らなかったが、交際期間の長さを考えればさして驚くこともない。だが4Kにはショックだったようだ。その近況報告の流れで、誰からともなく最近は性欲減退が著しいという話が出た。それぞれ自慰の回数が減ったとか勃ちが悪くなってる気がするとか。ノンケの下ネタにただ共感するだけの自分も悲しかったけれど、自分だけじゃなかったことに安心もした。ただ、4Kは元々性欲が強かったので、多少衰えた今も毎日致してしまうらしい。それが4Kにとっては許せないようで、「毎日30分から1時間かけてネタを探して致して得られるものが何もない。この時間を資格の勉強に使えばもっと出世できるはずなのに。だからもうチンコ取りたい。」と。「取ったら子ども作れないだろ!宦官になるつもりかよ?!」と総ツッコミを食らうものの、「30歳までに彼女がいなかったら、もうその後も無理だろうからいらない。後悔しない。」と曰う。そうしたら仲間の内のバカが「じゃあ、ちゃんとルール作ってそれに達しなかったら去勢しよう。取ったモノはその心意気に応えて俺らで食って供養しよう」と言い出した。そして決まったルールが「30歳の誕生日までに彼女がいなかったら睾丸を摘出する。但し、その彼女は付き合って半年以上でないと審議が必要になる。また、誕生日から遡って半年以内に彼女と別れていた場合は去勢は保留し、審議とする。追加ルール:睾丸の摘出は30歳の誕生日に1つ、31歳の誕生日に1つとする。31歳時のルールについては前項と同様。」

我々はその立会人・審議官として彼を監視する。彼が睾丸を摘出したら、見栄えも考えて代わりに陶器で作った疑似玉を入れることになった。その疑似玉は我々友人一同が1人1つずつ作成し、名前を彫る。そして入れる本人にどれがいいか選んでもらう。選ばれたら光栄だ。自分の名前が彫られた疑似玉が友人の体の一部になるなんて。ちなみに摘出は我々の身内の医師にしてもらう。摘出後のモノをどう調理するかは決めていない。

まあ全て冗談なのだけど。友人が人生五種に残れるのか、それとも異次元のゲームが始まってしまうのか。僕はどうにかして4Kに彼女を作ってあげたい。ノンケのチンコが食べたくない。