マルクの眼

千字一夜

ツイッターランドで知り合った男の子に手を出して捕まった男の話は止めることにした。

直近で観た映画、“ラ・ラ・ランド”とそれについてのツイッターの反応が印象的だったので、私も感想をブログに書く。(字数がいつもの倍以上になった。)

 

ラ・ラ・ランド(以下“ラ”)観た?どうだった?私はよかった、と思った。いい映画だなぁ、と。けれど釈然としないところがチラホラあって、前評判を聞いて泣く気マンマンで行ったのに全然ウルっとしなかった。ツイッターを見ると概ね好評といった感じで、ははぁさてはアタシ恋愛不感症でそういう繊細な感覚が死んだかと不安になって感想を書くことを躊躇っていた。ところが。

菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね | Real Sound|リアルサウンド 映画部

↑この記事。私がラを観てモヤついた所をすべて上手に言語化している。映画評論家らしい視点で。ただ、めちゃくちゃ口が悪いのでラを人生最高の映画だと思った人にどう映るのか私は知らない。

私も語っていい?ネタバレしていい?しちゃっていいのかな?全部、言っちゃうね。 

 

ラ、“男が作った恋愛映画”感がすごい。女も主人公だと思って観ていると痛い目にあう。ヒロインに自分を重ね合わせて感情を動かしながら恋愛映画を観るタイプである私は、鑑賞後に泣いてない自分に気づいた。彼女は表情も感情表現も豊かだったけれど、果たして生身の人間なのかと思うくらいステレオタイプ的な“女”だった。人間的汚さがない。感情移入しにくい。その感が極まったのが、おしゃれなお家ごはんのシーン。あの「恋人ってこんなキッカケで喧嘩するしこんな感じで別れちゃうよね~」感。ラのシナリオに於ける最も重要なシーンの一つなのに、心に残らない。男が失言して女を怒らせてっていう筋も、「ハハ、見ろよ。男ってこういう時にこんな酷いこと言って意地張ってぜんぶダメにしちゃうんだぜ?バカだろ?笑ってくれよ…。」という監督だか誰だか知らないがこれを考えた男の自嘲みたいだった。女は悪くない風に書かれてるのにはリアリティがないし、おかしい。セックス・アンド・ザ・シティなら怒った女がもっと理屈の通らない事を言いながらテーブルの上の物を掴んでは投げるなどひと暴れして「くたばれ!」と吐き捨ててドアを乱暴に閉めるはず。「あの時は俺が全部悪かったんや…」と自虐的に振り返れるから、卑屈な男にとっては極めて理想的な別れ方かもね。あとね、この“自宅で手の込んだ料理を用意して間接照明でムーディーな夜を演出”はフラグです。悪いフラグ。この後、絶対に激しい喧嘩になってどちらかが部屋を出て行き、残された人の怒り&悲しみとステキなお料理&おしゃれな空間の対比が痛々しいパターンか、折角準備したのにすっぽかされるパターンのどちらか。ハリウッド恋愛映画あるあるかよ。第31回ゴールデンラズベリー賞三冠に輝いた“セックス・アンド・ザ・シティ ザ・ムービー2”で観たサマンサの女体盛りの方が人間味がない?なぁ?悔しかったら大陰唇にワサビが沁みたとか言ってみろ!!ファッキンちんぽでもいいぞ!!やめろ言うな!!ミア!!(追記:女体盛り、1作目の方でした💦)

そう、わざわざ1人舞台を観に着てくれるステキな元ルームメイトの女友達も、見せ場はたった一回のミュージカルシーン…。そして、2人がもう恋人に戻れないことを印象付けるために出てきたあの子も…。ラ、2人の恋愛が主軸であり全てで、周囲の人間については少しも掘り下げない。時には2人の人間性すら。そういうのは無駄と思って排除しているのか?単純に世界観を広げられなかったのか。ストーリーに中身・深みがないというのは監督自身が示していることで、ラストの“もしも”の回想と同じ尺で本編も見せられる。むしろ、あの“もしも”ありきで、“もしものようにうまくいかない場合”を膨らませて肉付けしたのが本編のシナリオなのではないか?と思うくらい。が、ラストの演出はそれだけ力が入っているようで際立って良い。アレが途中でアレを立つのも良い。アレがアレしてアレが合うのも良い。良い〜〜!!ニヤリ、あ〜〜!!となった。あのシーンは誰でも自分の恋愛と重ね合わせられるのではないでしょうか。

で、観終わった後の感動とか高揚を一旦脇によけると、“過去の恋愛を振り返る男の話”に見えてくる。ラストシーンだけでなく全編が回想。女を悪者にしたくないあまりに女を美化しすぎた思い出、或いは男の自虐。悪意を込めて言えば「あの女、ほんまえぇ女やったなぁ…わしが偏屈で不甲斐ないばっかりに苦労させたけど…今は幸せそうでよかったわ…俺もそこそこ楽しくやってますわ…こっちは心配せんと、ご主人と達者でな…( ◠ー◠ )」と。いや、そんな悪意をもった見方をする事もないんだけど、極端に言えば、ね…。女々しくも男に偏った目線で過去の恋愛を語るところに同族嫌悪しているんだと思う。

もうとにかく色々考えてしまう映画だった。よく出来た綺麗な作品だし、音楽もダンスもキャストの演技も本当に最高だったね。地上波で放映したら観ると思う。そんな気分。

 ここまで悪口を書き連ねといてアレだけど、こればっかりは完全に個人の恋愛観と好みだと思う!ラ・ラ・ランド、よかったです!

 

おわり

 

 

 

 

日本の皆様へ

このたび、2017年3月、ここ神奈川国立美術館を皮切りに、北は青森から岐阜、岡山、宮古島を巡る「大ヒモテ展-金と蜜の誘惑-」を開催し、我がヒモテ共和国が誇る至宝の数々を日本の皆様へご紹介できることは、私にとってこの上ない喜びです。

ヒモテの芸術文化は古代モテーナイ時代に萌芽し、ウェーイ人の移動、帝政ツラサ国の支配という動乱の時代を経て、初代王ビンタにより建てられた統一シュラン王国で花開きました。

14世紀、シュラン王国の首都であったゲロは、現在では花の都の別名で知られ、往時の芳しくも色鮮やかな貴族文化を伝える都市として全域が世界遺産に指定されています。ゲロのほぼ中央に位置する歴代ビンタ王の住居__サイゼリア宮殿を改装して造られたズツウィタミ美術館は、一年を通じ多くの観光客を迎える我が国随一の美術館です。その中でも毎年1500万人と最も来訪数が多いのは、親愛なる友人__日本の皆様です。日本の皆様の芸術への関心、知的好奇心、見識__これらに深い敬服の念を禁じ得ません。

日本とヒモテの間には多くの文化的差異があります。人種・言語・宗教・気性...__しかしながら、文化保護に対する情熱という一点に於いて我々は強く共感します。両国は古い文化と新しい文化の融合__あるいは衝突__これがごく小さなレヴェル・単位で発生し、独特の空気層を形成するのです。

奇しくも、本年は日本とヒモテの国交樹立からちょうど126周年に当たります。今より47年前、国交樹立79周年を記念して行われた「ヒモテ彫像展」では巨大なワビ石から彫り出された雄壮なヒモテの彫刻が多くの日本の美術ファンを魅了しました。このたびの「大ヒモテ展」ではこれに絵画を加え、より充実した内容であることをお約束します。

特に、本美術展の目玉である《路上で眠るベロベロ人》は今回が初来日となります。17世紀、4世ビンタ王の妻カエレン妃が、自身の寵愛した宮廷画家シューデンナイに描かせたと伝わり、実に177年の間、玉座の間を彩った風景画です。ビンタ家最後の当主となった11世ビンタ大公はその遺言に、この絵を含む全ての王家財産をヒモテ国に寄贈する代わりに一切の国外への持ち出しを禁じました。それは今日でも原則として守られていますが、今回は我が国と日本国美術館協会との間にある格別な信頼関係と協定に基づき、また両国の友好に資することを期して、遺言を違えての初来日そして初渡航となります。この点においても過去に例を見ない画期的な展覧会であることは間違いありません。

本展覧会が賢明なる日本の皆様の眼を楽しませるとともに、両国の親善と相互理解を深めるものと確信しております。この春、ヒモテの華やかな歴史と文化を日本でご堪能ください。

 

在日本ヒモテ共和国大使 イナイレキ=ネンレー

 

 

 

Ora Orade Shitori egumo

夏休みを挟んだだけでクラスの友人と疎遠になった私を叱ってくれた人は今でも親友だけど、疎遠になったクラスの人はもう顔も薄ぼんやりとしている。ニッコリ笑うだけじゃ人間関係が解決しない人生だ。 

星野源のおこぼれに預かったか、薄顔の私も少しモテるようになった、と思う。褒められたり好かれたりする事の少ない生涯を送ってきましたので戸惑いがある。

見られることを意識して無頓着だった色々なことを少しずつ改める一年にしようと感じた。

昔、美輪明宏が「ありのままの自分を受け入れて欲しいと言うのは畑から引っこ抜いてきた泥つきの大根を『食え!』と相手に突き出すのと同じ。綺麗に洗って調理してから『どうぞお召し上がりください』と言うのが当たり前。」と言った。自分は悪いところを治さないのに相手に受け入れる心を求める傲慢さは改めるべき。

なんにせよ向上心。現状に満足して歩みも思考も止めてしまう努力の放棄は罪。

宮沢賢治の「永訣の朝」が私の夜に沁みた。

 

 

あなたの瞳に映る私の話

最近やたらと目にするようになった「SNS(インスタ)映え」という言葉。インターネット黎明期なぞ私は知らないが、馴染みのある限りでmixiアルバムの太古から多かれ少なかれ「写真映え」という意識はあった。文字として生活の表層に現れ市民権を得てしまうとは思わなかったけれど。苦しみながら生きる弱い自分の姿を隠そうと、無闇なキラキラファンタジー世界に暮らすことをアピールしてしまうのは唯の虚栄心なのか。はてさて。

かく言う私も最近まめにインスタグラムを更新しているのだが。「インスタ映え」を意識して世界を見ると、ダラっと怠惰にしていた景色も心なしか緊張するようだ。仕事や旅行先、美味しかったご飯などの写真を好んで撮っては上げている。

私は一人で鏡やスマホの前で表情を作るのが苦手、ゆえに自撮りが下手だ。それだけでホモとして相当のハンデキャップを抱えていると思う。ブスのくせに美意識が強くて自分の殻を破れないのには参る。が、友達と撮った写真の中の私は笑えているし、写真を見ると友達と過ごした時間を思い返せる。これはいいぞと、25歳になってからは友達にお願いして自分の写真を撮ってもらい、インスタにあげている。インスタで繋がっているのは、幼稚園からの友達やゲイの友人など交友範囲がバラバラで、会った人の写真を公開するのに多少抵抗があるというのも一つの理由だ。

友達が撮ってくれた自分の表情に友達との関係性が見える。カッコつけたり笑ったり苦い表情でいたり、自然に楽しんでいるように見える自分。それが私は嬉しい。SNS映えがなんだ。映えなくたって私は撮ってもらった自分の写真をあげるぞ。そんな気分。楽しい思い出が蘇るのでInstagramは本当にいいアプリだと思うし、闇が深かろうがマウンティングが酷かろうがどんどん使いたい。

 

最近の出来事

 

先日、大学時代の友人が結婚した。

ありがたいことにご招待にあずかって、結婚式から披露宴・二次会とフルで参加させてもらいました。都内にある神社での挙式はとてもステキで、神前式に参列するのが初めてだった私はえらく緊張した。

結婚した女友達は、趣味も見た目も私とは違って華やかな美人。なのに価値観が似てて、俗に言う"ウマが合う"って感じ。卒業旅行に二人で海外に行くくらい仲がいい。もう一人女友達を加えた三人で卒業後もしょっちゅう会っている。

そんな関係なので当然 私がゲイなこともご存じだし、実は人生で最初にカミングアウトした友人たちでもある。

親友と公言して憚らない私たちは、学生時代から顔を合わせれば恋愛の話ばかり。あの頃は男運のなかった彼女が、今 高砂席で優しそうな新郎に微笑みかけている。

私は嬉しかった。そして同時に、今までのように会えなくなる寂しさや、今後も友人がこうやって次々に結婚していき、既婚者特有の悩みやライフイベントを経て、独身の私から離れていってしまうのだろうと感じた。お酒がすすんだ。でも、これってよくあるゲイ(あるいは独身女)の悩みだな、とも感じていた。

朝、7時15分に家を出て、9時から友達と原宿のヘアサロンで髪をカット。終わって式場の入り時間までスタバで朝ごはんを食べ歯を磨きネクタイをしめてご祝儀を確認して…と慌ただしく過ごし、披露宴の頃には疲労in'。

絶え間なく注ぐシャンパンと日本酒とビール。目の前には幸せそうな新郎新婦。愛しさの意味を知る。However,私の背中には業。

同じテーブルの、初めてお会いする新婦友人たちには私のことが知られていた。「あ、めのさん!?」の一言に嬉しさよりも戸惑い立ち止まる。う〜。ゲイバレしているのは別にいいんだけどね、これもゲイリブよ。でも彼女らは私の仕事の話に食いついた。20代にとっては珍しさが「私の職業>ゲイ」なんだね。

そんな訳でゲイを隠す必要もなく、幸せオーラとアルコールにやられた私は、新郎友人のイケメンを眺めながら「眼福だな〜」と呟いていた。二次会のゲームでは眼福さんの名前を聞き出し、ノリに任せて一緒に写真撮ろうとしたら酔っぱらいのせいで失敗したり、新婦友人たちと一緒に新郎友人を値踏みして遊んだ。今後も結婚式ではこうやって時間を過ごせるな…と思い、オープンゲイでよかったと思った。よくない。

 

 

 

 

リトル宇宙が走る夜

 

自分のことが好きな人をぞんざいに扱うのって独占欲の裏返しなのかな?好きな人に意地悪するのはなんだろうな?人間って難しいな。

上記じゃあないが、東京タラレバ娘の最新刊(今日現在)の巻尾の相談コーナーに、「自分のことが好きな異性は多かれ少なかれキモく感じる」という言葉があって、それを読んだ私は「あ〜〜」と声を出した。好きな人には好意を示したいと思っているので(恋愛に限らず)、その好意が相手から疎まれてるように感じることがある。或いは好意の表現方法がおかしい?どちらにせよ、よく分かってない時点でアスペ気味でやばい。

 子どもじみた態度をとるのは止めたい。身近に倫理的にぶっ壊れた人間がいないのでストレスもそう無いはずなのに、なぜか今ひとつ現状にしっくりとこなくて、私だけが段々ぶっ壊れていってるような錯覚がある。表面上社会人として暮らせているのに内部崩壊してるようで怖い。ほんとは平穏平坦平凡な社会人生活なんて望んでなかった?まさか…。

なんか色々やばいと思って、初期仏教の本を読んで心を整えようと思っているのに見つからない。仕方がないから論語を読んでるけど難解すぎたので、マンガで読む論語ってやつを読んだ。不快なことは書いてないので精神衛生にはよいけど、大衆を苦しみから救おうという目的で書かれてない(そもそも孔子自身が苦しみながら試行錯誤してる)から、実践してどうなるの…?って気持ちがある。これを書いてる間に、銀座線の中でまた善人ぶった。イケメンサラリーマンには目を奪われる。ただただ欲深い。只管に自分との戦い、人生は禅なのかもしれない。

 

デブニモナラズ

 

デブニモナラズ
ガリニモナラズ
Tシャツ一枚デ様ニナル
ソコソコノ身体ヲモチ


慾ハナク
決シテ皮肉ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル


一日ニビタミンヲ二錠ト
プロテイント少シノコラーゲンヲ飲ミ
アラユルヒトニ
ジブンノカンジョウヲ見セズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

都心ヲ少シ離レタ町ノ
小サナタイル張リノマンションニヰテ


東ニ病ンダゲイアレバ
LINEデ「大丈夫?今度飲ミニ行コウネ」ト声ヲ掛ケ
西ニオ祝イ事アレバ
Facebookデ気ノ利イタコメントヲ残シ
南ニ批判エアリプアレバ
DMデ怖ガラナクテモイヽトイヒ
北ニヲタクヤDQNガアレバ
楽シソウダカラ交ゼテクレトイヒ


トリノヨルハナミダヲナガシ
ヤスミノヒニハウロウロアルキ
ミンナノ飲ミ会ニヨバレ
ホレラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ