マルクの眼

千字一夜

死者は二度死ぬ

 

ある晩のこと、家で寝ていると遠くから砂利を踏む足音が聞こえてきた。段々とこちらに近づいてくる足音は聞き覚えのある、父の友人で優しいおじさんのものだ。仕事用に履いている長靴独特の足音は聞き間違えるはずもなく、ついに家の前までやってきた。時計を見れば真夜中で、急ぎの用があるのなら早く家に入ってくればいいのに、と思い声を待ったが、その後、物音はしなかった。

翌朝のテレビのニュースで、死者のでる事故があり、その一人がおじさんだと知った。事故があったのは足音が聞こえたのと同じ時間だったので、大層おどろいた。

後日、同刻に別の部屋で寝ていた両親と話したところ、二人とも足音を聞いているといい、わざわざ挨拶にくるとは亡くなってまで律儀な人だったね、などと話した。

 

これは先日、職場で私がきいた話だ。一緒に聞いていた私より少し年長の女性は、この話は怖いと言った。話し手の女性はその反応に驚いたそうで、地元東北に住んでいた50年も昔の話だが、自分にとっては日常の一つで、些か不思議な体験と思い子供心に記憶していた。怖いと言われるとは思わなかった、と言っていた。

 

 神、妖怪、霊魂と、順々にその力を現すことはなくなっていく。中でも最も身近な存在であった親族や友人の霊魂さえも、夢枕や家の中に現れると恐れられ怖がられる。オカルトブームによって死者の魂がこの世に残って姿を見せることは異常だと決められてしまってより後は、善良な死者は姿を現すことを諦めているように思う。死後の魂は生前の意識に基づいて行動するはずで、この世に未練や恨みがある霊魂だけが姿を現す、という偏見をもって死んだ霊が姿を現そうと思うはずもない。

 

心ある人の多かった時代は超常の伝えんとすることの意図は正しく汲まれ、死後現れることへ有り難さや温かさすら感じていたはずなのに、だ。

 

洋の東西や特定の信仰、教義に関わらず、そういった霊的直感力や所謂シックスセンスを持っている、というか自分の直感力を理解している人間は、文字通りセンスがいい。服や家、絵や音楽、デザイン、その他全てにおいて。

逆に言えば、そういった直感力を軽視、無視した人の汚さ。お金のあるなしではなく、単純に自分自身や世界への理解がないことからくる汚さ。目は見えているのに何も目に入っていない。ページをめくって文字を見ているのに何も読んでいない人。そんな人が増えている。

 

渋谷→原宿

 

渋ギャルの栄耀一睡のうちにして、109跡は一里こなたにあり。センター街は田野になりて、ハチ公像のみ形を残す。

 

まづ代々木公園にのぼれば、NHKより流るる大河あり。数多の長寿番組は、年歴を経て偉大なマンネリズムに落ち入る。

 

きゃりぱみゅらが原宿は、りゅうちぇるを出しておネェ系ノンケを増やすと見えたり。さても読モすぐってこの街にこもり、個性派流行りのチョキチョキに出る。

 

ギャル破れて山河あり、egg休刊して青文字系売れたりと、マジ切なくて時の移るまで涙を落とし侍りぬ。

 

パラパラや ギャルサーどもが 夢の跡


カラコンと 黒肌映ゆる 白毛かな  ギャル

 

太陽の末裔

 

先日、必要に迫られ修行に出た。

 

一週間もない短い合宿だったけど、数十人と同じ釜の飯を食って同じ風呂に入って同じ苦痛に耐えて、なにやかにやで友達が増えた。

年齢の近い人と過ごすことが少ないので、この非日常には感謝していたんだけど、それにしてもいい人が多いな、と思った。

お仕事の延長にある人間関係なので純粋な友達付き合いとも言い難いけど、口で説明できない心地よさとか安心感がある。

 

そういう話を高校の友達にしたら、「別業界で生きてる身としてはそっちには嫌なやつとかいないでほしいわ〜」と。

たしかにな。そうなんだけど。

 

そもそも嫌なやつでいるメリットってなんだ。私は打算的だし腹黒だけど、努めて嫌なやつに見せようとは思わないし、むしろ嫌いな相手にも好かれたい。面倒は嫌だ。

高校のときに初期仏教の教えに触れて、「人間付き合いを必要最小限以下にして心穏やかに生きる」という考え方を知ったんだけど、実際問題として人と関わらないと生きづらいし体面も気になる。考えた結果、上っ面を磨いて人と深く関わらないで生きている今。

 

嫌なやつとして生きながら人間と関わり続けるメンタルの強さ、全く分からない。というか、理解できるほどの時間を嫌なやつと現実で過ごしてないかも。

SNSまとめサイトみたいなネット空間とか、そこからまんま抜け出して来たような人間とか、そんなところでしか見ない。

深く関わるつもりがないので相手が対面で隠している悪意をわざわざ知る意味もないし、裏で悪意を垂れていようと現実に及ばなければ関係ないね。

 

ある程度お互いに敬意を払える繋がりが基礎にあり、SNSで繋がってないのが良好な付き合いの礎になりそう、というお話。

「親しき中にも礼儀あり」って昔の人はとっくに知ってたんだけどね。

 

あー早く遊びたい。

 

 

To be.


他人からのレッテル貼りに辟易する年頃を過ぎた気がする。

「まともに仕事してなさそう」とか、「恋人がいるとは思えない」と言われるので、案外そうなのかもしれない。
客観的に見た自分が一番真実に近い。というか客観的に見た自分こそが真実なのでゎ、と思う。
自分が自分自身をどう思おうが、周囲からの見え方こそが世界に於ける自分の立ち位置で、「自分だけが分かってればいい」というのは間違いじゃないか。

私がリア充に見えないのは私が「周囲からリア充と思われたい」と思って行動していないからで、結局のところ、そう見られる必要を感じていないのかも。
他人が作る自分像は自分の行動の産物で、自分が抱いている理想の自分像とは違うかもしれないけど、自分自身を緻密に描写していることに本当は気付いている。

ただその像は絶対的なものでなく、自分自身の行いによって変えられる。反面、他人が悪意を以って歪めることもできる。
極めて真実に近いものの、それに従ったり変わらずに生きる必要はないし、むしろそれを人生の記念写真や一里塚として記憶して、新たな人物像を作る努力を怠らないこと。

今は「レッテル貼りに辟易」よりも危機感が先立つ。それはそれとして忘れずにいて、次は世界に自分を分からせる。
その努力。



Wake Me Up


脳の半分が停止している感覚ってありませんか。
脳の外側の50%がもやつく。
こんな時は物忘れとか大事な仕事のすっぽかしがありそうで怖い。

今みたいな季節のいい頃は出かけたいものだけど、日常がそれを許さない。ゲイどころかノンケの友達とも数ヶ月あってないんじゃないの?って感じだ。
そもそも最後に出かけた休日っていつだ?記憶にない。

今は口の中のただれた薄皮を剥がしてる。急いでカップヌードルを口にした報いは大きかった。

すっぽん味のカップヌードルが気になって買って食べたんですけど、驚くほどに冷めない。3分待っても冷めてないし、全然味がしない。いや、味はするんだけど、口の中がただれてるから味が分からない。カップヌードル風情が口の中をただれさせるほどの熱を帯びるな。

結果としてすっぽん味に惑わされて熱い汁をすすってしまった訳だけど、普段はこんなことしない。熱い汁をすすらせた原因はやっぱり疲労なんだろう。
身体がすっぽんを欲しているらしい。
が、残念!あのスープにすっぽんは殆ど入っていないのだ!口剥け損だよ。

と、こういう些細な出来事に動揺して記事にするくらい、仕事以外なにもない最近。私には仕事以外ないのかもしれない。仕事自体は好きなのでそれでもいいんだけど、仕事しかない人間と思われるのは癪だ。

教養がないと思われたくないから休日は博物館や美術館に行きたいし、友達がいないと思われたくないから友達とも会うべきじゃない?
SNSに報告するのが人生〜って感じでマブい。キラキラじゃん。

コンテンツ生産者気取りの消耗品にはなりたくないね。

少しでもSNSのことを思い出すと叩きたくなるの、SNSを辞めた禁断症状かな?やばめ。
そうこうしてる内に0時になるし頭が更に20%くらい停止した気がする。





リンゴロン


アプリもやめ、ツイッターもやめ、ゲイ的には出家しているといっても過言でない。平安時代なら上皇か法王になっているお年頃だし、オトナかわいいを極めてしまったレディーガガもとい私はゲイという枠に居心地の悪さを感じているので次のステップ進みたいの。

以前友だちに「彼氏いないと生きていけない〜」と言ったら「え〜ウソだぁ!笑」と返されたことがあったけど、半分ほんとう。死にはしないけど、彼氏がいてくれるので私はすっぱりさっぱり生きていけるような気がする。逆に私を失ったらあなたの人生終わりだよとは言えないし思ってもないだろうから私の立ち位置のほうが低そう。依存かな。

なにごとにも依存せずに生きられるのかな。何かに夢中になることがしばしばあるけど、それだってハッとしたらスパッと止められるし、そもそもかなり飽きやすい気質なので持続しない。タバコもお酒も依存するほど好きでもない。ただ習慣と依存の境は難しい。歯磨きとかも磨かないと死にそうになるので依存に近い。でもそっちは行動依存で、やっぱり精神面での依存だと恋愛とかになっちゃうよね。

とまあ恋愛経験豊富感を出してみても実際に付き合った人数は少ないんですけど。私だけにスウィートラブソングを歌ってくれた人も1人くらいだし。沢山の人とお付き合いするほどのキャパシティも積極性もないので、少ない人と長くお付き合いしたいですね。恋愛に限らず、人間関係全てが少ない人数で広い交友関係を長く保てると理想だな。それも努力か。

大学時代からの友達2組がちかぢか結婚するそうで、その式に呼んで貰えそうだから嬉しいし、好きな人たちと長く友達でいられて嬉しい。そんな日。


おはよう


久しぶりに人に見られることを意識した文章を書こうと意気込むと筆が重くなる。実際には指が重い。瞼も重い。眠い。

何を書こうか悩むけどツイッターの話題は避けられない。私はツイッターから逃げた身なので、それを語る資格がない気がする。
上手く使っている人はいる。楽しんで使っている人もいる。私はどちらにもなりきれなかった。ツイッターでアクティブに活動するのは彼氏に任せることにする。

そう、この前彼氏と電話したときに、友人がツイッターを辞めたことをきいて驚いた。エロアカ以外で勢いのあるツイッタラーといえば、という感じの人なので影響は大きそうだ。同時期に彼氏のフォロワー20人?くらいがアカウントを消したらしいので、波及効果じゃないかなどと推測した。少なくとも別の友人がブログを始めたのはその影響なので、私には恩恵があったと言える。

ツイッターから生まれたペルソナの行方]

アカウントが削除されたらツイッター人格は本人の中に残るのか、それともアカウントとともに消えるのか。
ツイッター人格の依拠するところはツイッターアカウントか本人の人格内かという疑問。

思うに、ツイッターアカウント=役、本人=役者、ツイッター人格=仮面で、役者が仮面を被って役を演じるように、ツイッターアカウントを運営する人はツイッター人格を生み出す。
ならツイッターアカウントが削除されてもツイッター人格は本人の中に残るだろう。そのうち自分の作り出したキャラクターに浸食されアイデンティティを奪われそうだけど、逆に言えば理想の自分を演じ続ければいつかその自分になれなくもない、か。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
有名な、そして私の好きなマザー・テレサの言葉ですけど、これツイッターのことじゃん、と思った。ツイッターに限らずだけど。